第9号 巻頭言

「教育研究の自由」の代償 ——大学のアカウンタビリティ——
慶伊 富長

慶伊 富長(北陸先端科学技術大学院大学学長)

 1920年生まれ。九州帝国大学理学部化学科卒業。北海道大学助教授,東京工業大学教授,東京理科大学教授,沼津工業高等専門学校校長を経て90年より新設の独立大学院大学学長。東京工業大学・沼津工業高等専門学校名誉教授。触媒化学専攻,理学博士,触媒学会名誉会員(元会長)。国立高等専門学校協会会長,大学設置審議会委員等を歴任。

 専門著書論文の他に「大学設置基準の研究」,「大学評価の研究」(東大出版),「マイケル・ポラニ創造的想像力」(ハーベスト社)などがある。

 「おおよそこの世の中にただで何かが貰えることなど有りはしない。大学人にとっての特権だろうと仕事に不可欠なものだろうと,学問の自由なるものが与えられたり持たされたりしているのにはそれ相応の期待,社会的責任,会計責任が付随しているのは当然だ。」—M.Tight"Academic Freedom and Responsibility"Open Univ.Press,(1988),p129.

 1988年の「教育改革法案」によって,70年続いた英国の大学自治体制が完全に崩壊した。世界の大学人を羨望させてきた「Pay without Control」体制はここに消滅し,政府による「Control with Pay」体制が新しく成立したのである。サッチャー女史は自信満々に「大学の活性化と基礎科学研究の振興に成功した」と回顧しているが,事実は大ベテラン閣僚K.ジョセフの深慮遠謀による「大学自治権縮小,終身在職権の制限,大学理念の修正,業績評価実施,予算統制による理工技術系拡大,大学種別化」が行われたのである。

 従来は大学人が構成する大学補助金委員会(UGC)が一括予算を受け各大学に配分してきた。今やUGCは存在せず,「この"ブラックボックス"会計責任の時代は永遠に過去のものとなった」(Tight,p131)といわれている。人件費,研究費の大幅削減と月謝値上げ(学生ローン増)による不急学科改廃,産学共同推進,地方政府管轄下のポリテク30校の大学昇格による基礎学優位の大学理念の修正等など,すべては政府の一貫したプライベチゼーション政策に沿った大学改革であった。徹底した経済性,有効性と効率が大学に求められたのである。

 サッチャー首相は基礎科学と優れた科学者支援のための首相直轄の小委員会を設立した。そしていわく「科学研究の経験をもつ者の一人として,私はもっとも大きな経済的恩恵をもたらす科学研究は,常に基礎的な知識の進歩の結果であって,個別的な応用研究ではないということを知っていた。…… 科学に本当の理解がない者は見過ごしがちなのだが,ちょうど芸術におけるのと同様に,もっとも偉大な成果というものは計画も予測もできないものである。」(サッチャー回顧録,下,232頁)。言っていることは,改革に抵抗していた学長会議(VCPC:副総長兼校長会議)とまったく同じである。だが,オックスフォードの化学修士号を誇りとする彼女が行ったことは,VCPCの反対にもかかわらず,研究費配分権を大学人から取り上げ政治家に委せたことである。政治家に科学者の優劣の判断を委せる発想は政治家のものであり科学に本当の理解がある者の脳裏には無い。彼女は優れた政治家であろうが,科学の本当の理解者であるとはいえまい。英国の科学が基礎優先であり個別的な応用研究が余りにも軽視されたために,英国経済が大きく立ち後れたという簡単な事実(C.P.スノーが30年前に指摘した)を彼女は見過ごしている。彼女の理想「応用研究・技術軽視の大学理念」こそ教育科学大臣ジョセフの真の攻撃目標であった。「大きな経済的恩恵にあずかれなかったのは,応用研究・技術の立ち後れにあった」ことの視点の欠落している彼女が「多くの著名な大学人が,教育におけるサッチャリズムとは職業訓練という目先の要求への,学問の実利主義的服従を意味すると考え,私を困惑させた。もとより,そのような考えは私の意図するサッチャリズムの範疇にはない」と言ったのは本心からであろう。だから,同時に「われわれは財政的な圧力をかけることによって,大学行政(管理の意味・・筆者)の効率を向上させ,懸案だった合理化を実行させた。大学はビジネスヘのかかわりを次第に強め,いっそう企業的になっていった。」(回顧録,下,184頁)と書いているように,大学改革を実行したのは「私」でなく「われわれ」なのである。大学改革は保守党政権の一貫したプライベチゼーション政策に沿った効率化,合理化,応用研究重視の企業化なのであり,回顧録の中に語られているサッチャー女史の科学論は関係がない。

 要するに,英国の大学改革は(本誌読者の表現をお借りすれば)政府の大学に対する「支出に見合う対価」(VFM)すなわち,「経済性,効率性,有効性」(3E)追究の結果であり,政府側から見た「大学の会計責任」体制の確立に他ならない。

 今や先進諸国における「大学問題」は,文字どおりの「アカウンタビリティ(会計責任)」を政府が追究する構図で進行している。政府の大義名分は国際競争力強化にあり,そのための「科学技術人材養成と応用研究」公費支出の3Eを大学に要求する。大学は「学問研究の自由」を掲げて抵抗しているが味方は少ない。「学問研究は人類共通の財産となる」ことで納税者に際限なき研究費支出を要求することはできない。

 「学問研究の自由」を保障する「大学自治権」は,大学人(ガウン)と社会(タウン)の境界線である。「今や明らかに,この境界線は政府の好みのままに移動させられますます大きな会計責任が大学人に要求されている」(Tight,p130)。UGCという外堀を失い裸になった各大学は,今後は政府の直接的な攻撃に曝されることになる。同様に大学が国費によって賄われている他のヨーロッパ諸国では王侯時代から,「大学自治」は大幅に政府のコントロール下にある。王政時代から強力な工科大学を持つドイツ型諸国,実学のグランゼコールを擁するフランス等での大学改革は,大量の単科大学群を昇格,教授権力をますます縮小したドイツ,工科・技術短大部を増設,学生の権利を拡大したフランスに見られるように,国際競争力強化のために盛んに行われている。

 強力な私立大学と玉石混交の州立大学・短大2000校を抱えるアメリカの大学問題はヨーロッパよりも複雑であるが,現在の中心課題が政府の「会計責任」追究攻勢にあることは同じである。1950年代スプトニーク打ち上げ以来連邦政府は膨大な科学研究費を大学につぎ込んだ。私学といえども研究費はすべて外部資金であったから,過大な研究費の流入は私学の政府統制を強める結果となった。政府出資の全米科学基金財団(NSF)は大学人による査定の基礎研究費補助機関だが,議会の監視下に置かれている(バウマン協約)。この協約を不快とする大学人の声は大きいが,政治家からの不満の声はもっと大きい。先般も研究費の不正使用を議会から追及されてスタンフォード大学総長が辞任を余儀なくされた。外部研究費は,40%程度の大学上納金(オーバーヘッド)を含んでいる。これが大学を潤すのだが,それを総長官舎修理に使ったことが槍玉にあがったのである。ここで注目しなければならないことは,同じ時期に,「NSF資金は教員個人の研究のためではなく,技術に役立つように学生を教育するための研究に使用すべきである」とする規制案が議会上程寸前まで煮つめられていたことである。スタンフォード事件は氷山の一角に過ぎない。問題は科学研究費のみではない。高額な月謝は連邦政府の学生ローンで賄われているが,これが毎年数十億ドル焦げついているという。クリントン政権はこれの改革を始めた。ローンを減らせば学生数が減ることは明らかである。米国の大学は研究費の会計責任を問われるだけでは済まないのである。

 さて,肝心の日本ではどうか?日本の現在の大学問題は「大学評価」である。教育審議会・大学審議会答申を踏まえて文部省は大学規制の一部を緩和した。「大学設置基準の大綱化」と称されているが,一般教育必須の縛りを外しカリキュラム編成を自由化したのである。同時に「質の確保向上」努力を「大学の自己評価」作業実施に求めたことから「大学評価」問題が始まった。昨年から多くの国立大学から分厚い白書が公表され始めた。一方,18才人口急落期に生き残りをかける私学はすでに独自の教育確立を模索しており,「大学の自己評価」作業は先行していた。このような大学側の動きは,従来「偏差値ランキング」のみによってきた社会(受験生とその家族を顧客とするジャーナリズム)の関心を呼んだ。「大学評価」は「大学の自己評価」から「社会の大学格付け」にと範囲が広がりつつある。

 かかる「大学評価」の現状に見られるのは,日本の大学人に「評価」の意義が正確に把握されていないことに原因する混乱である。設置基準の大綱化,カリキュラム自由化は教学権の拡大,すなわち「教育研究の自由」の拡大である。この自由化の担保として要求されたものこそ「大学の自己評価」に他なるまい。自己評価作業の遂行は,学内に「大学目的のコンセンサス」があり,同時に「目的達成のための管理体制」が存在することを前提としている。自己評価とは—Plan Do See Plan—のSee—であり,目的に向けた計画策定(Plan)があり,それにしたがった活動(Do)を目的達成度に照らしての点検評価(See)して,次のPlanにつなぐ組織的活動の一環である。多くの大学人が「大学は教育研究の場である」と考えている限り,大学は「教育し研究する教員」の共同体組織であってよく,したがって「大学白書」は名目的な収支決算と教員(せいぜい学科単位)の業績を羅列したものとなる。研究大学を目指すのであれ,特定教育を掲げるのであれ,目的が明確ならば,目的遂行に対しての教員の活動結果・業績の到達度(業績指標),計画と資源配分の管理責任その他の評価ができるはずである。したがって,突きつけられた「自己評価」こそ,「大学の会計責任」自覚の要求に他ならず,回答としての「大学白書」は,会計責任を明らかにする「業績指標に基づく大学自身の存在理由の主張」でなければならないのではあるまいか。

 昨年,国立大学は施設設備の老朽化を社会に訴え,政府が大幅にこれを認めた。「基礎研究の振興」は「設置基準の大綱化」と並んで,日本のみが世界に逆行して,政府が大学に歩み寄りの姿勢を示した証拠と見えなくはない。各国政府を羨望させ,大学改革に走らせたものは,日本の技術力を支えてきたのは巨大な工学部を擁する日本の大学体制であったから,研究費増額,自由化は政府による大学への報償とも思われる。しかしながら,引き続く国立大学の月謝値上げに今年から医歯系と理科系の月謝増額案が台頭してきたこと,国立大学の地方移管や設置形態見直し,研究重点大学構想,大学院強化,私学補助金打ち切り等の政府筋の諸案は,それぞれの理由はあるとしても,すべては政府が大学の会計責任を追及する姿勢にあることを示すものと見るべきであろう。

 国際化した今日,連動しているのは円ドル相場のみではない。「大きな政府」から「小さな政府」へのシフトは,日本においてだけは大学の特権たる「ブラックボックス会計責任」を素通りすると信じる根拠は何処にもないのである。

 大学は必ずや到来するものに備え,社会に対し主張し得る目的を持った「教育研究」を確認し,目的遂行のための「教員の学問研究の自由」を保障し「教員の組織的教育活動」を円滑化する管理体制(内側へ向けての大学自治体制)を早急に確立する必要があるだろう。英国のドラスチックな大学改革に接して少しく愚見を述べさせていただいた次第である。

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