第17号

「機関」の概念,そして会計検査院法2条の問題性
森田寛二

森田寛二
(東北大学法学部教授)

 1948年生まれ。東北大学法学部法学科卒業。東北大学法学部助教授を経て,現職。行政法専攻。日本公法学会会員。近年公表した論文は,「国有財産法の理解に関する疑問(上)(中)(下)」自治研究73巻12号・74巻1号および3号(1997年,1998年),「行政行為の公定力論に関する塩野教授の問題提起について(上)(下)」自治研究73巻1号および2号(1997年),「人事院等の修正裁決,そして体系的理解の利点(上)(中)(下)」自治研究72巻5号・6号および7号(1996年),「行政『主体』と行政『機関』の概念—法律学一般への洞察の上にたって」自治研究71巻4号(1995年),「法律学一般の根本概念としての法行為と事実行為,そして行政手続法の『事実上の行為』」自治研究70巻12号(1994年)など。

 現在もなお世界的ロングセラーとして知られるエーリッヒ・フロム著『愛するということ』は,「愛を達成するための基本条件は,ナルシシズムの克服であ」り,「ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である」と指摘1)して,次のように論ずる。

 「周知のとおり,こと相手が外国となると,どうしても客観的にみることができない。相手国は堕落しきった極悪非道な国のように見え,いっぽう自分の国はあらゆる善と高貴さを代表しているように思われる。敵の行動を評価するときと,自分たちの行動を評価するときとでは,それぞれ違う物差しを使う。敵がどんなに良いことをしても,世界を欺こうとする特別の邪悪さのあらわれにちがいないと思ってしまう。いっぽう,自分たちが悪いことをしても,それは必要であり,立派な目的のためだから仕方ないということになる。結局のところ,国際関係においても,人間関係においても,客観性はまれにしか見られず,相手のイメージは多かれ少なかれナルシシズムによって歪められている,と結論せざるをえない。

 客観的に考える能力,それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。子どものときに抱いていた全知全能への夢から覚め,謙虚さを身につけたときにはじめて,自分の理性を働かせることができ,客観的にものを見ることができるようになる。

 このことを,私たちが論じている愛の技術の習練にあてはめてみると,こういうことになる。人を愛するためには,ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから,謙虚さと客観性を理性を育てなければいけない。自分の生活自体をこの目的に捧げなければならない。謙虚さや客観性を場面によって使い分けることはできないが,愛も同様である。他人を客観的に見ることができなければ,自分の家族を客観的に見ることもできない。その逆も同様である。そして,愛の技術を身につけたければ,あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。また,どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。他人とその行動について自分が抱いているイメージ,すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと,こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している,その他人のありのままの姿とを,区別できるようにならなければならない。

 客観性と理性を身につけただけでは,愛の技術の体得へと到る道はまだ半分しか来たことにならないが,関わりを持つすべての人にたいして,客観性と理性を働かせなければならない。もし,『愛する人にたいしては客観的になろう,それ以外の人にたいしてはどうでもいいや』などと考えていると,結局は誰にたいしても客観的になれない2)」。

 冒頭に長い引用をしてしまったが,冒頭にこれを引いたのは,専門的論文や専門教育が果たす《根源的な,深層心理レヴェルでの役割》に関し示唆するところがあるためであり,また,この論文が私自身の,そして誰か他の人の「謙虚さと客観性」の「習練」,ひいては「愛の技術の習練」にほんのちょっとでも寄与するところがあれば,という思いからである。——ほんのちょっとであれ,そのような寄与の可能性を肯定することは,専門的論文や専門教育が果たす《根源的な,深層心理レヴェルでの役割》に関しひとつの所見を得る覚醒につながるであろう。

 本題の話題に移ろう。会計検査院法2条は「会計検査院は,三人の検査官を以て構成する検査官会議と事務総局を以てこれを組織する」と規定する。

 この規定をみて「あれ,何か変3)」という感じを抱いたのは,今から15年ほど前の昭和57年11月に,「昭和54年9月19日」付けの「会計検査院事務総局第2局長」からの「東北大学長」宛「実地検査の結果について」と題する書面4)をみせられ,これに関連して会計検査院法を通覧したときであった。

 私が「あれ,何か変」と感じたとき,私の脳中に浮かんでいたのは,人事院に関する規定であった。人事院に関する現行の規定を連想し,それとの絡みで「あれ,何か変」と私は感じたのである。連想した規定は,国家公務員法のなかにある。次に,それを掲げておこう。

国家公務員法4条1項:「人事院は,人事官三人をもつて,これを組織する」。
同法12条1項:「定例の人事院会議は,人事院規則の定めるところにより,少なくとも一週間に一回,一定の場所において開催することを常例としなければならない」。
同法13条1項:「人事院に事務総局及び法律顧問を置く」。

 みられるように,人事院事務総局は,人事院の「中」にはなく,人事院の「下」にある。これに対し,上に記したところから知られるように,会計検査院事務総局は,会計検査院の「下」にあるというふうにはなっておらず,却って会計検査院の「中」にあるのである。そこで出来するのは,どちらの構成が妥当であろうかという問題である。以下における立論は,この問題に関し「解明」的意見を獲得するという目的をもって組成されたものである。

1.「機関」の概念を定式化する

 既に言及した会計検査院法2条は,日本国憲法90条を受けて制定されたものである。そのことから容易に推測されるように憲法は,会計検査院という名義を用いて定めをおいている。いまふれた憲法90条がそれで,同条1項は「国の収入支出の決算は,すべて毎年会計検査院がこれを検査し,内閣は,次の年度に,その検査報告とともに,これを国会に提出しなければならない」と,同条2項は「会計検査院の組織及び権限は,法律でこれを定める」と規定する。

 このように憲法は,会計検査院という名義を用いて定めをおいているが,憲法にいう会計検査院は,どのような性格をもっているとみるべきであろうか。会計検査院は,「院」とされ,そして,「会計検査院の組織……は,法律でこれを定める」とされているところからみて,組成体としての性格を有しているとみていいとおもうが,憲法が言及している組成体として,ひとがまっさきに脳中に浮かべるのはおそらく「国会」であろう。この国会について私は,2年半ほど前に公にした「行政『主体』と行政『機関』の概念�法律学一般への洞察の上にたって」と題する論文(以下,旧稿という)のなかで,次のように書いた。

 「憲法41条は,『国会は,……国の唯一の立法機関である』と規定し『機関』といっているが,これは,いうところの『立法』事務についての『権利の主体』は国であるという把握の上にたって 『機関』といっているのである。いま,同条の『立法』事務についての『権利の主体』を《立法主体》と呼ぶとすれば,同条は,《立法主体》は国であるという把握の上にたって『国会は,……立法機関である』と規定しているのである。そしてその『機関』の語であるが,私のみるところでは,同条は,講学上の機関の概念を前提にしている。その講学上の機関の概念が何であるかは,後に講学上の行政『機関』の概念についておこなう定式化的説明から容易に観取されうるであろう5)」。

 国会が講学上の機関である所以については後に記すが,ともあれ私の考察結果にしたがえば,国会は講学上の機関としての性格を有している。会計検査院も,同様の性格を有するのであろうか。

 この点の究明をおこなうにあたって最初に取り組まれるべきは,講学上の機関の概念的解明である。もっとも,講学上の機関の概念を定式化する試みは,法律学の基本の基本に関係するため,「多くの時間と労苦の上に成立するもの6)」といっていいほどに,ひとつの難事であるが。

 ところで,その試み,しかもその主流的な試みは,どのようなものであったであろうか。それは,具体的な人間が占める「地位」——たとえば税務署長という「地位」——に焦点を定めて,その「地位」を講学上の機関の概念の核にすえるという試みであった。けれども,その試みには難点がある。その試みの上にたった講学上の機関の概念の定式化は,いわゆる独任制の(講学上の)機関をカヴァーできるものの,組成体の性格をもった(講学上の)機関,すなわちいわゆる合議制の(講学上の)機関をカヴァーできないのである。旧稿の「三 《内閣の地位にある自然人》というものをアイデンティファイできようか」で,私は次のように論じた。

 「税務署長は独任制の機関であり,その税務署長については,《税務署長の地位にある自然人》をアイデンティファイできる。しかし,合議制の機関については,《その機関の地位にある自然人》というものをアイデンティファイできるであろうか。

 たとえば内閣,あるいは仙台市人事委員会が,講学上の行政機関に当たることについては異論をみないが,《内閣の地位にある自然人》というもの,あるいは《仙台市人事委員会の地位にある自然人》というものをアイデンティファイできるであろうか。確かに,内閣を組成する《内閣総理大臣の地位にある自然人》,あるいは仙台市人事委員会を組成する《仙台市人事委員会委員の地位にある自然人》はこれをアイデンティファイできる。けれども,《内閣の地位にある自然人》というもの,《仙台市人事委員会の地位にある自然人》というものはアイデンティファイできないのではあるまいか。前にのべたところから窺い知られるように,合議制の機関というのは,《講学上の機関をもって組成された講学上の機関》である。合議制の機関というのはこのようなものであるので,合議制の機関については《その機関の地位にある自然人》というものをアイデンティファイできないのである7)」。

 ここに書き写した旧稿中の一節から容易に知得されうるように,自然人すなわち具体的な人間が占める「地位」に焦点を定めて,その「地位」を(講学上の)機関の概念の核にすえるという見地の上にたって(講学上の)機関の概念を定式化する試みは,組成体の性格をもった(講学上の)機関,いわゆる合議制の(講学上の)機関を捕捉することに成功していないのである。

 そこで試みられるべきは,独任制の(講学上の)機関のみならず合議制の(講学上の)機関をもカヴァーすることのできる定式化である。もっとも,これは困難な課題であり,難問である。言葉をかえていうと,「解明」的見地を得る過程に苦しみがあるのである。この点について,旧稿で私は次のようにのべた。

 「講学上の行政機関のなかの独任制の機関をカヴァーするだけでなく,そのなかの合議制の機関をもカヴァーすることのできる定式化を試みることには,多くの労苦が伴うであろう。何故かというと,講学上の行政機関のなかの合議制の機関であるところの,たとえば内閣,あるいは仙台市人事委員会を定式化的視線のなかに入れるときは,その内閣あるいは仙台市人事委員会との間に《講学上の行政機関からなる組成体》である点で共通性を有する内閣官房,あるいは仙台市人事委員会事務局が,その定式化的視線の延長線上に立ち現れてくるからである。ところが,その内閣官房,あるいは仙台市人事委員会事務局は,内閣や仙台市人事委員会とは異なって,講学上の行政機関ではないとされているので,それらを定式化的視線のなかに入れてはならないのである。

 これを一般化していうと,次のようになる。すなわち,内閣や仙台市人事委員会といった《講学上の行政機関から成る組成体で,しかもそれ自体が講学上の行政機関であるもの》を,講学上の行政機関についての定式化的視線のなかに入れるときは,内閣官房や仙台市人事委員会事務局,あるいは大蔵省とか仙台北税務署といった《講学上の行政機関から成る組成体であるものの,それ自体は行政主体でも講学上の行政機関でもないもの》が,その定式化的視線の延長線上に立ち現れてくるが,後者は,講学上の行政機関ではないので,定式化的視線のなかに入れてはならない。視線のなかに入れてはならないのに,えてして視線のなかに入ってきやすいものを視線のなかに入れないようにしなければならないために,多くの労苦が伴うのである8)」。

 苦しみは,これを引き受けて,そして引き受けながら学び,乗り越えていかなければならない。「難問があるとき,ひとのなすべきことは,難局があるときと同様,それに敢然と立ち向かい,そうして,それを超克することであろう9)」。

 私は,旧稿の「五 講学上の行政『機関』の概念を定式化する」において,講学上の行政「機関」の概念を定式化するという難問に立ち向かい,ひとつの試みを呈示した。以下の引用節が,その中核的な部分である。

 「それでは,その講学上の行政『機関』とは何をいうのであろうか。私は,次のように定式化したいとおもう。《講学上の行政『機関』とは,行政主体の事務を担任させて行政主体のために活動させる目的で設けられた名義で,少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているものをいう》10)」。

 ここに引いた一節に示されている機関の概念を適切に理解してもらうために,私は旧稿で,税務署長,内閣,仙台市人事委員会などを例にとって補完的説明をおこなったが,本稿では,更なる理解を求めて,更なる補完的説明をおこない,機関の概念をより「客観化」「理性化」したいとおもう。

2.「機関」の概念をより「客観化」する

 旧稿で私は,《講学上の行政『機関』とは,行政主体の事務を担任させて行政主体のために活動させる目的で設けられた名義で,少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているものをいう》と書いた後で,直ちに「この意味において」と言葉を継いで,次のように論じた。

 「この意味において,たとえば税務署長は,講学上の行政機関である。税務署長は,たとえば国税通則法24条によれば,同条の『更正する』という活動をおこなうことになっているが,その『更正する』という活動については現行制度上,税務署長が《最終的な受皿》となっているので,税務署長という名義は《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているもの》に当たる11)」。

 税務署長は,国税通則法24条の規定する 「更正する 」権限をもっているが,現行制度上その「更正する」の主辞的名義となりうるのは,税務署長のみである。税務署長のするその「更正する」という活動を《補助する》職があるが,その職は,税務署長のするその「更正する」という活動を《補助する》という活動をすることを任務としているのであって,その「更正する」という活動それ自体をすることを任務としているのではない。したがって,税務署長のするその「更正する」という活動を《補助する》職につけられた名義は,その「更正する」の主辞的名義とはなりえないのである。税務署長という名義が,その「更正する 」の主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を有するのである。それが故に,「その『更正する』という活動については現行制度上,税務署長が《最終的な受皿》となっているので,税務署長という名義は《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているもの》に当たる」といいうるのである。

 いま話題にした旧稿中の一節にすぐ続けて旧稿で私は,内閣という組成体が講学上の機関としての性格をもつ所以,そして,仙台市人事委員会という組成体が講学上の機関としての性格をもつ所以について,次のように説いた。

 「内閣も,講学上の行政機関である。内閣は,たとえば憲法73条6号によれば,『政令を制定する』という活動をおこなうことになっているが,この『政令を制定する』という活動については現行制度上,内閣が《最終的な受皿》となっているので,内閣という名義は《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているもの》に該当するのである。

 仙台市人事委員会も,講学上の行政機関である。たとえば地方公務員法8条1項10号の 『職員に対する不利益な処分についての不服申立てに対する裁決又は決定をする』という活動については現行制度上,人事委員会が《最終的な受皿》となっているからである12)」。

 内閣は,憲法73条6号の規定する「政令を制定する」権限をもっているが,現行制度上その「政令を制定する」の主辞的名義となりうるのは,内閣のみである。内閣のするその「政令を制定する」という活動を《補助する》職があるが,その職は,内閣のするその「政令を制定する」という活動を《補助する》という活動をすることを任務としているのであって,その「政令を制定する」という活動それ自体をすることを任務としているのではない。したがって,内閣のするその「政令を制定する」という活動を《補助する》職につけられた名義は,その「政令を制定する」の主辞的名義とはなりえないのである。内閣という名義が,その「政令を制定する」の主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を有するのである。それが故に,「この『政令を制定する』という活動については現行制度上,内閣が《最終的な受皿》となっているので, 内閣という名義は 《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているもの》に該当する」といいうるのである。

 仙台市人事委員会は, 地方公務員法8条1項10号の規定する 「職員に対する不利益な処分についての不服申立てに対する裁決又は決定をする」権限をもっているが,現行制度上その「裁決又は決定をする」の主辞的名義となりうるのは,仙台市においては仙台市人事委員会のみである。仙台市人事委員会のするその「裁決又は決定をする」という活動を《補助する》職があるが,その職は,仙台市人事委員会のするその「裁決又は決定をする」という活動を《補助する》という活動をすることを任務としているのであって,その「裁決又は決定をする」という活動それ自体をすることを任務としているのではない。したがって,仙台市人事委員会のするその「裁決又は決定をする」という活動を《補助する》につけられた名義は,その「裁決又は決定をする」の主辞的名義にはなりえないのである。仙台市人事委員会という名義が,その「裁決又は決定をする」の主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を有するのである。それが故に,その「『……裁決又は決定をする』という活動については現行制度上,〔仙台市においては仙台市〕人事委員会が《最終的な受皿》となっている」といいうるのである。

 さきに書き写した旧稿中の一節で私は,このように内閣という名義と仙台市人事委員会という名義を例にあげて,一定の説明をおこなったのであるが,その一節にすぐ続く箇所では,内閣官房という名義や仙台市人事委員会事務局という名義に言及して,一定の説明をおこなっている。次に引用するのが,その箇所である。

 「これに対し,内閣官房や仙台市人事委員会事務局は,講学上の行政機関ではない。それは何故かというと,内閣官房や仙台市人事委員会事務局は,現行制度上《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿 》となっていないからである。内閣官房や仙台市人事委員会事務局は,《行政主体の事務を担任させて行政主体のために活動させる目的で設けられた名義 》ではあるけれども,現行制度上《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿》となっていない。

 内閣官房を例にとって,具体的に説明しよう。内閣法12条2項は,『内閣官房は,閣議事項の整理その他内閣の庶務,閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整及び内閣の重要政策に関する情報の収集調査に関する事務を掌る』と定める。この規定中のたとえば『閣議事項の整理その他内閣の庶務……に関する事務』を処理するという活動について,内閣官房が現行制度上《最終的な受皿》となっているかというと,そうではない。このことは同法14条の2第2項が『〔内閣官房に置かれる〕内閣参事官は,命を受けて閣議事項の整理その他内閣の庶務を掌る 』と規定しているその一事からしても,明らかであろう。同様のことは,同法12条2項で言及されている他の事務についても当てはまる。そして,このような考察を推し進めていくと,内閣官房という名義は現行制度上《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているもの》には当たらない,という結論に到達するのである13)」。

 いま引用したところから知られるように,内閣法12条2項は,「内閣官房は,閣議事項の整理その他内閣の庶務……に関する事務を掌る」と規定している。こう記すと,あるいはひとは,同項は「庶務……を掌る」と読むべきであって,「庶務……に関する事務を掌る」というふうに読むべきではないと指摘するかもしれないが,私は,同項で用いられている「及び」という語の法制局的使い方,そして,同項では用いられていないものの,「並びに」という語の法制局的使い方を考慮して,「庶務……に関する事務を掌る」と読み,「庶務……を掌る」と読まなかったのである。「庶務……を掌る」と読んでもらいたかったのかもしれないが……。

 それはともかく,内閣官房が講学上の機関としての性格を有するかどうかを判断するにあたっては,次のようなことを検討する必要があろう。すなわち,「内閣官房は,閣議事項の整理その他内閣の庶務……に関する事務を掌る」(あるいは「内閣官房は,閣議事項の整理その他内閣の庶務……を掌る」)と規定する内閣法12条2項との絡みのなかで,内閣官房という名義が,その「庶務……に関する事務を掌る」(あるいは「庶務……を掌る」)という活動について現行制度上,《最終的な受皿》としての性格をもった名義であるのかどうか,を。

 内閣官房という名義は,その「庶務……に関する事務を掌る」(あるいは「庶務……を掌る」)の主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を有するであろうか。現行制度上は,最終的な主辞的名義としての資格を有しない。このことは,内閣法14条の2第2項が内閣官房という名義ではなくて,(内閣官房におかれる) 内閣参事官という名義に言及して,「内閣参事官は,命を受けて閣議事項の整理その他内閣の庶務を掌る 」と規定していることから明瞭であろう。

 ここで,いま一度,内閣法12条2項を紹介しておくと,同項は 「内閣官房は,閣議事項の整理その他内閣の庶務,閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整及び内閣の重要政策に関する情報の収集調査に関する事務を掌る」と規定する。この定めの内容から知られるように,内閣官房が講学上の機関としての性格を有するかどうかという当面の問題を決するにあたっては,更に同項のなかの「閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整及び内閣の重要政策に関する情報の収集調査に関する事務を掌る」という箇所について,考察をくわえる必要がある。

 その考察においては,その箇所に係る「内閣官房は,……閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整……に関する事務を掌る」という部分については,(内閣官房におかれる) 内閣審議官という名義に関する同法14条の2第3項の 「内閣審議官は,命を受けて閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整に関する事務を掌る」という規定が,そして,その箇所の残余の部分たる「内閣官房は,……内閣の重要政策に関する情報の収集調査に関する事務を掌る 」という部分については,(内閣官房におかれる)内閣調査官という名義に関する同法14条の2第4項の 「内閣調査官は,命を受けて内閣の重要政策に関する情報の収集調査に関する事務を掌る」という規定が注視されていいであろう。

 注視の結果,何が結論として出てくるかというと,要するに,こうである。内閣官房という名義は現行制度上,内閣法12条2項にいう「事務を掌る」の最終的な主辞的名義としての資格を有しない。それが故に,「内閣官房という名義は現行制度上 《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているもの》には当たら」ず,したがって,講学上の機関としての性格を有しない,といいうるのである。

 旧稿における私の論述は,内閣官房におかれる内閣参事官,内閣事務官,内閣官房長官などが講学上の機関に該当することに関する一定の説明をふくんでいるが,以下に書き写す箇所が,それである。

 「これに対し,右でふれた,内閣官房におかれる内閣参事官は,講学上の行政機関である。内閣法14条の2第2項の『内閣の庶務を掌る』という活動については現行制度上,内閣参事官が《最終的な受皿 》となっているからである。同様に,内閣官房におかれる内閣事務官も,講学上の行政機関である。同条5項によれば『内閣事務官は,命を受けて内閣官房の事務を整理する』と規定するが,この『整理する』という活動については現行制度上,内閣事務官が《最終的な受皿》となっているからである。

 内閣法13条1項は『内閣官房に内閣官房長官一人を置く』と定め,同条3項は『内閣官房長官は,内閣官房の事務を統轄し,所部の職員の服務につき,これを統督する』と定める。この規定中の『統轄』するという活動,あるいは『統督する』という活動については現行制度上,内閣官房長官が《最終的な受皿》となっているので,内閣官房長官という名義は《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているもの》に該当し,講学上の行政機関である。また,内閣官房副長官も,講学上の行政機関である。同法14条1項は『内閣官房に,内閣官房副長官二人を置く』と定め,同条2項は『内閣官房副長官は,内閣官房長官の職務を助ける』と定める。この14条が二個の講学上の行政機関について規定していることについては,もはや多言を要しないであろう14)」。

 この引用節に関し多くを語る必要はないとおもうが,内閣参事官は,内閣法14条の2第2項にいう 「内閣の庶務を掌る」の主辞的名義でしかも最終的な主辞的名義としての資格を,内閣事務官は,同条5項にいう「内閣官房の事務を整理する」の主辞的名義でしかも最終的な主辞的名義としての資格を,内閣官房長官は,同法13条3項にいう「統轄し……統督する」の主辞的名義でしかも最終的な主辞的名義としての資格を,内閣官房副長官は,同法14条2項にいう「内閣官房長官の職務を助ける」の主辞的名義でしかも最終的な主辞的名義としての資格を有しているので,内閣参事官という名義,内閣事務官という名義,内閣官房長官という名義,そして,内閣官房副長官という名義は,それぞれ現行制度上《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっている》名義に当たる。それが故に,それらの名義は講学上の機関としての性格をもっているといいうるのである。

 ちなみにいう。内閣法14条1項は「内閣官房に,内閣官房副長官二人を置く」と規定するので,そこには二個の(講学上の)機関があることになる。「二人を置く」ときには,そのそれぞれが,同条2項の「内閣官房長官の職務を助ける」に当たる活動のうち少なくとも一つの活動について,専属的に担当するというシステムがとられることになり,その結果として,二つある内閣官房副長官という名義は,いずれもが現行制度上《少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっている》名義に該当することになるからである。

 上で私は,憲法が言及している組成体として,ひとがまっさきに脳中に浮かべるのはおそらく「国会」であろうと書き,その国会が講学上の機関である所以は後に記すと書いたが,この点に関する旧稿中の論述は,以下のとおりである。

 「私は,『国会は,……国の唯一の立法機関である』と規定する憲法41条は,講学上の機関の概念を前提にしていると論じた。この論述が何を支えにもっているかというと,それは,同条の『立法』をするという活動については現行制度上,国会が《最終的な受皿》となっているという把握に支えられているのである15)」。

 補足的コメントをくわえておくと,ひとは,議員の立法活動というような言い回しを用いる。たとえばA議員が一定の法律をつくるよう某省に出向き強く要請したとき,それを指して議員の立法活動と呼ぶ。けれども,そのような活動があっても,それによって憲法41条にいう 「立法 」があったことにはならない。これに対し,一定の法律が制定されれば,それによって同条にいう「立法」があったことになる。現行制度上,同条の「立法」をするの主辞的名義となりうるのは,国会のみである。国会が,その「立法」をするの主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を有するのである。それが故に,「同条の 『立法』をするという活動については現行制度上,国会が《最終的な受皿》となっている」といいうるのである。

 この「2.『機関』の概念をより『客観化』する」の結末的論述をしよう。旧稿で私は,次のような趣旨のことを説いた。《講学上の機関とは,法人の事務を担任させて法人のために活動させる目的で設けられた名義で,少なくとも一つの活動事項について最終的な受皿となっているものをいう》と。このテーゼをより「客観化」して説くとすれば,どうなるか。もはや明らかであるとおもうが,それは次のとおりである。《講学上の機関とは,法人の事務を担任させて法人のために活動させる目的で設けられた名義で,少なくとも一つの活動事項についてその主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を認められているものをいう16)》。

3.会計検査院法2条と憲法

 会計検査院法2条に戻ろう。同条は「会計検査院は,三人の検査官を以て構成する検査官会議と事務総局を以てこれを組織する」と規定するが,上で論じてきたところから容易に判断されるように,検査官会議は,講学上の機関としての性格をそなえている。これに対し,事務総局は,講学上の機関としての性格をそなえていない。

 検査官会議の方からのべると,会計検査院法11条はその柱書において 「左の事項は,検査官会議でこれを決する」と規定しているが,現行制度上この「決する」の主辞的名義となりうるのは,検査官会議のみである。検査官会議という名義が,その「決する」の主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を有する。それが故に,検査官会議は,講学上の機関としての性格をそなえているといいうるのである。

 次に事務総局についていうと,会計検査院法12条1項は「事務総局は,検査官会議の指揮監督の下に,庶務並びに検査及び審査の事務を掌る」と規定する。事務総局という名義は,その「庶務並びに検査及び審査の事務を掌る」の主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を有するのであろうか。現行制度上は,最終的な主辞的名義としての資格を有しない。このことは,たとえば(事務総局におかれる)事務官という名義に関する同法17条2項が 「事務官は,上官の指揮を受け,庶務,検査又は審査の事務に従事する」と規定していることから明瞭であろう。事務総局は,講学上の機関としての性格をそなえていないのである。

 以上を前提として,会計検査院法2条にいう会計検査院の性格について考究をくわえると,どうなるか。同条にいう会計検査院は,講学上の機関としての性格をそなえていない。これが考究の結末である。何故か。同条が,事務総局は会計検査院の「中」にあると規定しているために,そのような結末になるのである。同条にいう会計検査院という名義は,《少なくとも一つの活動事項についてその主辞的名義,しかも最終的な主辞的名義としての資格を認められているもの》には当たらないのである。現行制度上,大蔵大臣という名義は講学上の機関としての性質を有するのに対し,大蔵省という名義は講学上の機関としての性質を有しないが,会計検査院法2条にいう会計検査院は,大蔵大臣的な名義か,それとも大蔵省的な名義かと問われれば,大蔵省的な名義であると答えざるをえないのである。

 仮に会計検査院法2条が,国家公務員法4条1項のように,「会計検査院は,検査官三人をもつて,これを組織する」と規定していたならば(そう規定したときには,事務総局は会計検査院の「下」にあるという形で爾後の規定をおくことになろうし,三人の検査官からなる会議の名称は会計検査院会議となろう),会計検査院法2条にいう会計検査院は講学上の機関としての性格をそなえているとの論定に至るような仕組がつくられた,と推測されるが,現行の会計検査院法は,そうなっていないのである。

 ところで上にのべたように憲法は,会計検査院という名義を用いて定めをおいているが,憲法にいう会計検査院は,どのような性格をもっているとみるべきであろうか。会計検査院は,「院」とされ,そして,「会計検査院の組織……は,法律でこれを定める」とされているところからみて,組成体としての性格を有しているとみていいとおもうが,問題は,そこから先にある。というのは,憲法にいう会計検査院は,講学上の機関としての性質を有する一定の組成体として把握されるべきではあるまいか,という疑問があるからである。

 憲法「第4章 国会」「第5章 内閣」「第6章 司法」で肯定的に言及され,積極的に規律がおかれている組成体としては,「国会」「衆議院」「参議院」「両議院の協議会」「弾劾裁判所」「内閣」「最高裁判所」「下級裁判所」があるが,これらの組成体は,いずれも講学上の機関としての性格をそなえている。はたしてそうとすれば,憲法「第7条 財政」で言及されている会計検査院も,講学上の機関としての性格をそなえていると理解されるべきではあるまいか。

 要するに,こうである。憲法にいう会計検査院は,講学上の機関としての性質を有する一定の組成体として把握されるべきである。会計検査院事務総局は,これを会計検査院の「中」におくのではなくて,会計検査院の「下」におくべきである。(念のためいう。私は,会計検査院事務総局を会計検査院の「中」におく会計検査院法2条をもって違憲と主張するつもりはない。違憲判断は,実質が確保されていないときになされるべきであると考えているからである。)

 結末的論定。会計検査院法2条は,一定の不適切さをもっている。

 最終末語。本稿において私は,「機関」の概念をより「客観化」することを試みた。この試みの背後にあるのが,「ナルシシズムの反対の極」にある「客観性」の追究という学問的理念であることは多言を要しないであろう。私は,「ナルシシズムにとらわれている個人や国家には,自分の考えやものの見方が間違っているかもしれないと想像することすらできない17)」という公理的指摘に思いを寄せる心構えをもちたいとおもっている。

1)エーリッヒ・フロム(鈴木晶訳)『愛するということ』175−176頁(1991年)。

2)フロム・上注1)所掲178−180頁。

3)ロバート・フルガム(池央耿訳)『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』17頁以下(1990年)は,「人間,どう生きるか,どのようにふるまい,どんな気持で日々を送ればいいか,本当に知っていなくてはならないことを,わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく,日曜学校の砂場に埋まっていたのである。わたしはそこで何を学んだろうか」と書いた後で,「そこで……学んだ」ことを箇条書きふうに16の項目にわたってのべているが,その一つに次のようにある。「不思議だな,と思う気持を大切にすること。発泡スチロールのカップにまいた小さな種のことを忘れないように。種から芽が出て,根が伸びて,草花が育つ。どうしてそんなことが起きるのか」。

4)文書番号は「542普第281号」で,冒頭に「先般施行の貴大学会計実地検査の結果必要がありますので,下記事項について54年10月9日までに回答して下さい」とある。

5)森田寛二「行政『主体』と行政『機関』の概念——法律学一般への洞察の上にたって」自治研究71巻4号,17頁(1995年)。

  なお,私は「事務」という言葉を,《法律を制定する》ことそのこと自体も一つの事務であり,大臣が《営業を許可する》ことそのこと自体も一つの事務であり,その大臣を《補助する》職に就いている具体的な人間がするその《補助する》ことそのこと自体も一つの事務であるというふうに広い意味で用いている。

6)森田・上注5)所掲3頁。

7)森田・上注5)所掲12−13頁。

8)森田・上注5)所掲13頁。

9)森田寛二「行政行為の公定力論に関する塩野教授の問題提起について(上)」自治研究73巻1号,26頁(1997年)。

10)森田・上注5)所掲18頁。

  なお,ここにいう「事務」について,上注5)を参照。

11)森田・上注5)所掲18頁。

12)森田・上注5)所掲18頁。

13)森田・上注5)所掲18−19頁。

14)森田・上注5)所掲19−20頁。

15)森田・上注5)所掲20頁。

16)ここにいう「事務」について,上注5)を参照。

17)M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち——虚偽と邪悪の心理学』296頁(1996年)。

  この『平気でうそをつく人たち』という書の著者は,「陸軍参謀総長の要請」により,「〔ベトナムの〕ソンミ村虚殺事件の心理学的原因を究明するための調査を勧告し,こうした残虐行為を今後防止しようという趣旨で設けられた委員会」の委員長を務めた精神科医である(同書261頁)。

  著者は,同書「第5章 集団の悪について」のなかでいう。「集団の悪を防止するための科学的基盤を確立する研究はいまだなされていないが,これを防止するための努力をどの方向に向けるべきかは,すでにわれわれにもわかっていると私は考えている。ソンミ村事件を調べてみれば,あらゆるレベルの知的怠惰と病的ナルシズムの作用が明らかになるはずである。戦争そのものをふくめて集団の悪を防止するには,怠惰とナルシズムを根絶,あるいは,すくなくとも著しく減少させる必要のあることは明白である」(同書309頁)。

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