第15号

社会保障の現状と課題
−人口減少社会への対応を急げ−
−第9回公会計監査フォーラムのセミナーより−
高山憲之

高山憲之
(一橋大学経済研究所教授)

 1946年生まれ。東京大学大学院博士課程終了。武蔵大学助教授,一橋大学経済研究所助教授を経て,90年に一橋大学経済研究所教授。この間,年金審議会,税制調査会,米価審議会など多数の審議会の委員を歴任。専攻は公共経済学。

 著書は,「ストック・エコノミ−」,「年金改革の構想」,「貯蓄と資産形成」など。

 皆様の貴重なお時間をちょうだいいたしまして,社会保障の現状と今後の課題についてお話を申し上げたいと思います。

 日本の将来,あるいは社会保障の将来を考えるときに私が一番気にかかる言葉からご紹介をさせていただきます。それは「アメリカの繁栄は老人が墓場へもっていってしまった」という発言でございます。これはローレンス・コトリコフというアメリカ人の経済学者で,現在ボストン大学の教授でございますが,この人が2年ほど前に日本にいらっしゃいまして,ある国際会議の席上で発言したものでございます。

 ご案内のようにアメリカは,1960年代,ケネディ・ジョンソンの時代に繁栄を誇っておりました。当時アメリカを訪問した日本人は例外なくその豊かさに圧倒され,うらやましく思って帰ってきました。そのアメリカが1970年ころから変調を来してしまったということでございます。サラリーマンの人たち1人ひとりに着目いたしますと,この25年間,いわば「成長感なき社会」が続いております。アメリカ人の1人ひとりを見ますと確かに所得の上昇があった人もおりますが,全体で20%ぐらいでございます。残りの8割はほとんど所得が上がらない,あるいは場合によっては実質的に所得が下がってしまったという人たちでございまして,総じて25年間「成長感なき社会」が続いています。一体あの60年代の経済的繁栄はどこへ行ってしまったんだという質問に対して,ここに紹介したような回答がある経済学者からなされたということでございます。

 繁栄を持続させるためにはそれなりの布石を次々に打っていく必要がございます。成長のための布石として重要なのは,やはり投資でございます。投資は2つございまして,公共セクターによる社会資本投資,インフラストラクチャーの整備と維持更新ということであります。もう1つは企業が長期的な視野に立って投資を続けていくということなんですが,実はこの2つとも1970年代以降思わしく進まなかったということでございます。どこの国も例外ないんですけれども,政府からの給付については,多々ますます弁ずの世界でありまして,アメリカ人は給付をできるだけ寛大なものに,大きなものにという要求をしておりました。他方で税金の負担だとか,そういうものについてはどちらかというと抵抗が大きくて,むしろ減税要求を強くしていたわけでございます。

 そうした中で,国も地方自治体も財政的に苦難を強いられるような状況になってしまった。財政赤字が国も地方自治体も一般的な状況になってしまった。その結果,社会全体におけるインフラストラクチャー,社会共通資本の維持更新あるいは新規の形成のためのお金がなかなかファイナンスできなくなってしまった。他方で民間企業の方は,どちらかというと短期的な利益に基づく行動をしがちでした。そのために,長期的な視野に立った,長期的な収益率を念頭に置いた投資というものに必ずしも集中できなかったということでありまして,結果的に長期投資が思わしく進まなかったということでございます。

 プレイナウ・ペイレイター(PLAY NOW, PAY LATER)という言葉が当時はやったんですけれども,今は楽しく遊んで支払いは後に回すという形で,貯蓄を国内全体でそれほどしませんでした。投資の原資をファイナンスするには当然貯蓄が担保としてなければならないんですが,国内の貯蓄が思うに任せない。当然借り入れに伴う金利が高目についてきてしまい,これも投資の阻害要因になってしまったということでありまして,しかるべき布石をアメリカ経済全体としてうまく打てなかった。そのツケが今回ってきた。あの黄金の繁栄をほこった時代の実質的な中堅の世代が今高齢者といいますか,老人になっておりますが,その老人たちが本来すべきことをしてこなかった。それで今「成長感なき社会」が25年も続いている。

 翻りまして,例えば今から25年ぐらい時間が経過した後に「日本の繁栄は老人が墓場に持っていってしまった」というようなことを誰かが発言するおそれはないのかということでございます。実は,私はその心配をしている1人でありまして,その理由を今日はご説明いたします。

 図1がございます。これは日本の総人口の推移について過去の実績と将来の推計値を示したものでございます。資料は厚生省の人口問題研究所が作成したものでございます。9月15日,敬老の日を前にして現在の日本の総人口は1億2,600万人であると総務庁から報告がございました。65歳以上人口は大体1,900万人,総人口の15%に達しているということでございます。高齢化は急ピッチで進んでいるんですけれども,高齢化の前に総人口の動きの方から皆さんにお話をしたいと思います。

図1 総人口推移:高位・中位・低位

 これから10年ぐらいしますと,総人口は減り始めます。ピーク時は1億3,000万人に届くか届かないかというところでありまして,その後は人口が減り出す。減り方については幾つかのシナリオが考えられているんですけれども,とりあえず政府統計等でよく使うのは中位推計というものでございます。中位推計に従いますと,人口は減り出すけれども減り方は極めて緩慢であるということでありまして,社会経済に大きなショックを与えるようなものではない。

 ところが,この中位推計をよく考えてみますと前提に問題がございます。将来人口推計は死亡率がどの程度まで改善するかとか,出生率が将来どういうふうに推移するかということに依存するわけでございますが,特に出生率の前提に問題が多いというふうに考えざるを得ません。この中位推計は女性が一生の間に平均して何人子供を産むかという人数ですけれども,2025年時点で1.8人まで回復するということを前提にしております。2090年時点においては限りなく2.1人に近くなるという仮定を使って推計しております。ただし,最近の実績で申し上げますと,今年7月末に発表された昨年の実績は1.43人でございまして,史上最低を更新するようなことになっております。一向に合計特殊出生率,女性が一生の間に平均して何人子供を産むかという数字の回復するめどというものが立っていないわけですね。ずっと下がりっ放しでありまして,今後とも下がり続けることはあっても止まるということがなかなか予想できないような状況になっております。

 低位推計は最近の1.45だとか1.50だとか,そのくらいの数字を念頭に置きまして,それが今後とも変わらないとしたら将来どうなるかということを推計したものでございます。2090年時点で日本の総人口は6,100万人強でございます。これから100年ぐらいたちますと日本の総人口は半分になるということでございまして,中位推計から見ますとかなり急ピッチの人口減少を想定しております。

 日本人はこれまで人口がふえることに慣れきってきたといいますか,慣れ親しんできました。明治維新以降,人口は急ピッチでふえ続けました。明治維新のときの日本の総人口は3,400万人でございます。戦争が終わった1945年時点では7,200万人ですね。80年たらずの間に約4,000万人弱の人口増があったわけでございます。その後も人口増大の勢いは衰えませんでした。1975年時点の日本の総人口は1億1,000万人でございます。戦後30年でまた4,000万人近い人口増があったというわけでありまして,日本は急ピッチな人口増を経験をしてきたわけでございます。

 そうした中で,「人口がふえるのは当たり前」という社会に生きてきたということでありまして,人口が減るということはどういうことなのかというイメージが決定的に不足しています。イメージがなかなか膨らまないものですから,人口減少社会への対応といっても何をしたらいいのかよくわからない,一体何が問題かさえもよくわからない。結果的に,とりあえず何もしない,今までどおりの施策を続けています。それでいいのかということでございまして,今日はその辺を皆さんとともに考えさせていただきたいと思います。

 人口が減るということによって一番確実なものは何かというところからお話をしたいと思うんですが,これは労働者の総数が同じように減っていくということでございます。表1をご覧下さい。これは労働省から日本労働研究機構にご出向なさっていた白石さんが推計なさったものでございます。2020年時点までですが,これは厚生省人口研の中位推計を前提に推計したものでありまして,多少バイアスがありますけれども,それでも傾向を読み取る上では何も問題ないデータでございます。

表1 日本の労働力人口についての将来推計

 労働力は2000年時点がピークです。合計欄でございますが,6,700万人ですね。それが2010年,2020年にかけて減っていってしまうということでございます。特に減り方がはげしいのは29歳以下の人たちでございます。2000年時点で1,593万人いると予想されているんですが,この人たちが2010年段階では1,221万人ですから,約370万人ほど減ってしまいます。2020年にかけてさらに減ります。その後も低下は続くということでございまして,総人口が減り出すと確実なことは働く人の総数が減っていく。特にその中で若い人が激減していくということであります。労働力全体は,実は中高年が主体になります。例えば2000年から2010年の間にかけてふえるのは55歳以上の高齢者です。日本の労働力は今まで団塊の世代を中心にして,どちらかというと若者ないし中年が主体を占めていたわけですけれども,今後はどちらかというと中年ないし高年齢の労働者が主体を占めるように急速に変わっていくということです。

 その変化によって日本経済にどういうふうなことが生ずるか。若い人と中高年との差は何かといいますと新しい技術に対する適応力の問題でございます。例えばここ2,3年の動きで見ますと,インターネットだとか電子メール,こういうものが急速に普及しております。会社であれ役所であれ大学もそうですけれども,急速に普及しております。この新しい技術にいち早く飛びつき,それをマスターして使いこなしているのは若い人たちでありまして,中高年はどうみても対応が遅れたということでございますね。大学の先生などで部下を持たない人は自分でやるざるを得ませんので,やっている人が結構少なくないわけですけれども,殊に会社だとか役所で部下を持っている,部下が若い人だと自分でやるより若い人に任せちゃった方が早いものですから,なかなか自分でやらないと。そうすると,そういう技術に対する対応,適応をなかなかしないという問題が出てきます。日本経済が中高年主体の労働力に移行するということは新しい技術へいち早く適応する人の数が減っていくということでありまして,経済全体として新しい技術への適応が鈍っていく。同時に,若者は失敗を恐れずにいろいろなことにチャレンジする特権を持っているわけですけれども,そういう人たちがだんだん減ってくる。物わかりがよくなって,余り危険を冒さない人たちがふえてくるということでありまして,全体として動物的な精神といいますか,投資マインドみたいなものもやはり減退を余儀なくされるのではないかというおそれがございます。

 あわせて人口が減ってくれば国内市場もサイズが徐々に小さくなっていく。あるいは,成長率が落ちるに従って貯蓄率も低下していくということでございまして,人口が減るということはやはり経済全体で見ますと,若い人も年寄りも減っていくという形ならば,もしかしたら問題はもうちょっと楽だったかもしれませんけれども,若い人たちだけが減って中高年だけが残っていくという構造であるために,やはり心配をせざる得ない問題がどうしても出てくる。結果的に日本経済は徐々に衰退していくのではないか。

 衰退していってもいいという考え方もあるかもしれません。歴史を見れば,古代ローマにしてもその他の国も結局は繁栄をほこった後は,徐々にであれ急スピードであれ,どこの国も衰退していった。これは歴史の定めであるという諦観といいますか,ある意味では「滅びの美学」に殉ずるということになるかもしれません。

 けれども,少なくともまだ我々にはチャンスが与えられております,可能性が与えられております。その可能性にチャレンジすることなく,これから起こる人口減少ということを放置していていいかという問題でございます。

 経済あるいは社会が衰退するとどういうことになるか。既に経験済みの国がございます。それはスウェーデンでございますけれども,60年代におきましては福祉の最先進国ですね。世界が理想とした福祉国家を建設し,その恩恵を享受していた国なんですけれども,1990年代にいたりまして経済は3年連続してマイナス成長を経験いたしました。91年からでございます。マイナス成長を経験したということは,国民が年々享受し得るパイの大きさが1年ごとに小さくなっていったということでございます。去年と今年を比べたら,今年の方が生活水準が下がった。来年になって過去1年を振り返ってみたら,さらに下がった,さらに翌年も下がっていったということで,スウェーデンは3年連続で経済のマイナス成長を経験したわけでございます。当然,現役で働いている人たちの生活水準が下がってきているわけですね。そのときに従来の制度で約束していた契約がもはや維持,履行できなくなったということでございます。

 端的に申し上げますと,年金には物価スライド制がございます。去年,年金で買えたものは今年も買えるようにしようではないかということが背景にある考え方でございまして,生活水準を維持するというために物価スライドをする。けれども,若い人の生活水準が低下しているのに,年金受給者だけ去年と同じ生活水準を享受していいのか。しかも,年金受給者の手にする年金は若い人の負担で賄われているわけです。当然スウェーデンでも大議論が起こりまして,若い人の生活水準が低下しているのに,高齢者だけ,年金受給者だけ低下しないというのはやはりバランスがとれないということになりまして,物価スライドは本来やらなければいけないものであったんですが,それを一部サボることにしました。要するに若い人の生活水準が下がっているのに高齢者だけ例外というわけにはいかないということで,高齢者も生活水準の低下を余儀なくされたわけでございます。

 物価スライド以外にも,いろいろ寛大な福祉の制度がございました。例えば病気休暇の制度,これは通常の有給休暇とは別枠で用意されていたものでありまして,医師の診断書なしに勤務先に電話連絡するだけで病気休暇が取れました。まさに社会は善意ある人間だけで構成されているということを前提にした制度でございます。ただし,これもお金を食うわけでありまして,見直さざるを得ないということになりました。何をしたかといいますと,病気休暇の制度自体は残しましょうということなんですね。ただし,今までこれを有給で認めていたんですけれども,病気休暇初日に限って無給扱いにするという制度変更をしたわけでございます。

 今まで勤め先に連絡するだけで病気だと言えば会社を休めて,しかもそれが有給であった制度が,少なくとも申請した1日目は無給でペイをもらえないということになったわけでありまして,ただでさえ生活水準が低下しているわけですから,これは大変なことになってしまったわけです。当然,初日が無給扱いになるということは困るということでありまして,結果的に病気休暇を取得する人が激減してしまったんですね。これは,今まではずる休みをしていた人がかなりいたということであります。本当に病気で困っていた人は当然いたわけですけれども,こういう人は病気休暇を取らざるを得ないわけですけれども,そうでない人は病気休暇を取らなくなった。病気休暇を取得する人が激減したということでございます。これは年間で25日ありますから,1年で見ますと大体労働総日数の12分の1くらいあったわけでございまして,今まで従業員の10%弱がそういう形で休むことを念頭に置いてジョブの設計とか従業員の手配をしていたんですが,みんな会社に出てくるようになりましたので,会社では人が余るようになってしまったんですね。

 そうすると,そんなに人は要らないということで今度は首切りを事業主がやり出したんです。それで,実質的に見ますと失業率は14%ですね。スウェーデンの失業統計では,日本でいう失対事業に就いている人は失業者扱いになっておりません。ただし日本的にいいますと失対事業の関係者というのは失業者ですから,これを失業者扱いしますとスウェーデンの失業率は14%にもいってしまったんですね。失業手当を従来どおり出せない。そこもカットするということでありまして,年金だけでなくてあらゆるものが整理の対象になってしまったということでございます。

 結局,アメリカのように「成長感なき社会」が続いてしまう,あるいはスウェーデンのように毎年のように生活水準が下がっていくということになりますと,従来約束していた社会保障給付を支給できなくなるということでございます。少なくとも現役の人たちの生活水準が下がらない,あるいは確実に上がっていくということが担保にないと社会保障給付は従来の約束どおり支払えないということでございます。現在,西欧あるいはアメリカもそうですけれども,主要な先進国はすべて財政再建といいますか,そういう問題の対応に追われております。ターゲットになっているのは,いずれも社会保障給付でございます。

 アメリカにおきましても,基本的に今後60年ないし70年間,年金保険料は上げないという選択を既に十数年前にしております。レーガン政権時代,1983年でしたけれども,そのときに年金大改革を行いました。そのときに年金の保険料は基本的には上げないという選択ですね。当時,資金的にショートが生じておりましたから,少し時間をかけて上げましたけれども,12.4%で年金保険料を固定するということを法律の中に明記してありまして,向こう60年にわたって保険料を上げない。当然,アメリカもベビーブーマーがおります。そういう人たちが退職すると,年金が大変になるだろうということは当然予想されるわけですけれども,支給開始年齢を遅らせたり給付水準を下げたりして調整する。保険料を上げて対応するということはしないということをアメリカ人は既に決めてしまったんですね。これは先ほどお話ししましたように,背景に「成長感なき社会」というものがあったということでございます。「成長感なき社会」では現役の人たちに負担増を求められない。負担増を求めるという選択肢はないんですね。給付をカットすることしかないわけです。負担に合わせて給付を調整する方法しかないんです。

 先ほど言いましたように,スウェーデンもとりあえずショック療法でいろいろなことをやりました。年金について言いますと,これも革命に近い大改正を与野党で合意しております。年金保険料は18.5%で固定するという合意であります。スウェーデンは高齢化が世界で一番進んでいる国なんですけれども,今は束の間の休息といいますか,そういう時期に入っております。2000年以降また高齢者の数がふえまして,総人口に占める割合が当然ふえてくる。にもかかわらず,年金保険料を引き上げるということはしないということを与野党で合意してしまったんですね。保険料は18.5%で固定する。しかも,公的年金の世界で初めて,給付建てではなくて掛け金建てでやろうということまで実は決めてしまったわけです。調整に20年の時間をかけると言っておりますけれども,実施は来年1月1日からということになっております。細かい詰めが行われているようではありまして,実施がさらに遅れる可能性もあるんですけれども,スウェーデンはそこまで追い込まれてしまいました。「成長感なき社会」あるいはマイナス成長が続いているような社会においては負担を上げるという選択肢はないんです。若い人たち,現役の人たちの生活水準が下がっている中でそんなことはできっこないということなんですね。

 主要な先進国で今後高齢化がまだ進むから負担増を覚悟しなければいけないと言っているのは,多分日本とドイツだけでしょう。ドイツも従来やや楽観的なスタンスだったんですけれども,欧州における通貨統合に向けて財政面で非常にきついバリアが設定されております。財政赤字はGDPの3%以内にとどめるという規律でありますけれども,そういう基準を達成するために社会保障給付の見直しを従来よりも一層厳しく,しかも実施時期を早める形でやらざるを得ないということでありまして,この秋本格的な議論がスタートしたようでございます。コールさんは大変苦しい立場に立たされているようでありますけれども,ドイツもそういう状況にあります。ですから,負担を引き上げざるを得ないと言っているドイツでさえ非常に苦しいことを今やっているわけです。

 人口高齢化という点で申し上げますと,日本はまだ5合目なんですね。まだ先はずっと遠くにあって,ピークは高いわけなんですけれども,負担を引き上げるということについてはやむを得ないとみんな考えているわけです。しかし,現役の人たちの生活水準が仮に上がらないということになれば,従来の前提は崩れてしまうと考えざるを得ません。

 あるいは,最近経営者団体からいろいろな苦情が出始めております。社会保険料水準の高いヨーロッパ諸国,端的に言いますとスウェーデンやフランスを見ますと非常に高い人件費を払わされている。しかも,それは法定の社会保障のための拠出です。社会保険料事業主負担を今後とも引き上げられたんでは困るというふうに言い始めています。現に,スウェーデンでもフランスでも社会保険料を引き上げるという選択はもうないんですね。仮に財源が必要であったら社会保険料以外で財源調達をするということになっておりまして,例えばフランスでは新しい社会保障目的税,CSGを1991年に導入しまして,その料率を今引き上げております。社会保険料率はもう引き上げない。新しい目的税,CSGで対応する。このCSGは日本的に申し上げますと,所得型の付加価値税であります。確かに賃金からも取るんですけれども,財産所得すなわち利子・配当,家賃・地代等からも財源を拠出してもらう。あるいは移転所得ですね。年金給付だとか失業給付という移転所得からも財源調達をするというものでございまして,若い人たちや企業に対する負担を余り重いものにしない。かわりに財産のある人だとか社会保障給付を受けている人にもお金を拠出してもらって,今後の対応を図る。こういうふうな形での軌道修正を図っているのが実情でございます。

 そういう中で日本の将来を考えてみますと,現役の人たちに余り過大な負担をかけるわけにはいかない。できれば,少しでもいいから現役の人たちの生活水準が着実に上昇していく社会というものをつくっていきたい。そうした方がはるかにいいに決まっているわけです。

 そういう観点から申しますと,日本における長期的な成長のネックになっているもの,これは先ほどから申し上げておりますけれども,出生率の低下に伴う労働力人口の減少です。今後傾向的に人口減少,労働者総数の減少というものを予定せざるを得ないところに追い込まれているわけですね。しかも,その減り方は,100年で人口が半減するという激しさです。

 今のような事態が続くとどういうことになるか。世界で最も低出生率を記録しているのは,実は地域的に言いますと北イタリアでございまして,これが1.1ですね。表2をご覧下さい。これは昨年の日本の都道府県別の出生率の実績を示したものでございまして,日本全体では1.43ですけれども,都道府県別に見ると随分違いがございます。一番高いのは山形とか沖縄でございまして1.9近いわけであります。かつては沖縄がいつも一番でしたね。昨年,山形がトップに出たわけですけれども,事実今まで沖縄がトップだったんです。一番低いところはどこかと申し上げますと,実は東京でございます。東京は1.1まで下がっちゃったんですね。東京周辺の大都市,大阪,京都を中心とする大都市部と北海道が低い地域ということになっております。

表2 都道府県別の合計特殊出生率

 各県とも傾向的に見ますと,出生率はずっと低下していて,下げどまったという気配を見せておりません。香港が1.2ですね,北イタリアが1.1,ドイツやオーストリアあるいはスイスは大体1.3から1.4でございまして,そのあたりまで下がってきても決して不思議ではありません。あるいは南ヨーロッパ地域,地中海に面している地域ですけれども,ポルトガルだとかスペインだとかギリシア,イタリアもそうですけれども,みんな軒並み1.3前後にあります。ですから,何もしないでいれば日本の出生率も低下を続けていく。1.3ぐらいまでは確実に落ちるでしょう。場合によっては1.1までいってしまうかもしれない。そうすると,日本の総人口の減少はもっと急激だということですね。1.45ぐらいで2090年に6,000万人前後,5,000万人台になるかもしれませんけれども,これが1.3ということになりますと,さらに急激に減っていくということでありまして,若者が基本的に少なくなる,あるいは場合によってはいなくなってしまいます。

 東京にいると,若い人たちがいなくなるというイメージがなかなか膨らみません。ところが,日本には過疎地が全国津々浦々にあります。過疎地にはいろいろな特徴があるんですけれども,その最大の特徴は「子供がいない」ということなんですね,若い人がいないということです。たまたま東京や大阪あるいは埼玉は若い人が多くいて,日本全体で所得の再分配をするメカニズムがいろいろな制度を通じてでき上がっております。ですから,今のところ過疎地にいてもそんなに困らないようになっておりますが,日本全体が過疎地になったらどこが助けてくれるか。助けてくれる国はないでしょう。そういうことを皆さんにもぜひお考えいただきたい。

 極めて長期的な話をいたしますと,今の高齢化対策のままでいいのかという問題提起をせざるを得ません。現在政府が進めている高齢化対策は,誤解を恐れずに言えば高齢者対策でございます。年金もそうですし,あるいは医療もそうです。あるいは,最近法案を提出する話になっております介護,これも高齢者絡みの話でございます。あるいは,バリアフリーのまちづくりだとか住宅の改造だとか,いろいろな形で政府が今一丸となって進めているものは,すべて高齢者を念頭に置いた施策なんですね。高齢者対策だけやっていて,本当に高齢化対策をやっていることになるのか。

 図2をご覧下さい。これは,平成元年に実施された全国消費実態調査を再集計したものでございます。1人当たりの所得が年齢別に見てどのような水準になっているかを計算したものでございます。線が2つ書いてありまして,再分配前と再分配後と書いてあります。再分配というのは税制を使う場合とか社会保障給付を使うとか教育の現物給付等を考慮した場合であります。年金給付や医療給付の方は当然再分配後で出てくる。あるいは,それに伴う社会保険料負担や税金の負担は再分配後で出てくる。そういうことをしない再分配前の数字を見ますと,全年齢平均が100の場合,高齢者は大体80から90あたりのところです。

図2 現物込みの1人当たり所得

 ところが,再分配後で見ますと,日本の高齢者は全年齢平均を100とした場合,110から120のオーダーまで所得を手にしている。この再分配所得の出し手はだれかといいますと,20歳から60歳までの人たちですね,破線と実線の差分のところを見ていただくとわかるんですが,再分配後の方が下がっている世代が再分配所得の出し手ということになります。

 この中で特に20代の後半から30代までで言いますと年功序列の賃金体系のもとにありまして,必ずしも所得には恵まれていない。そうした中で子供ができたりして母親が一時リタイアする,あるいはパートでしか働けないということになり,家族1人当たりの所得で見ますと決して恵まれていない。これは再分配前でもそうですね。再分配前の破線で見ていただきますと,30代のところ,あるいは40代の前半でも全年齢平均を下回っております。こういう人たちに対して,再分配所得を出してください,税金を負担してください,社会保険料を負担してくださいということになっています。社会保障給付等はこの世代にはほとんど届かないわけでありまして,結果的にこの世代が全年齢平均で見まして80ぐらいの水準まで落ちている。

 高齢者は全年齢平均で見ますと,110から120までいっています。若い人たち,特に子育て真っ盛りの人たちは80ぐらいのところで生活を余儀なくされている。高齢者対策を一生懸命やった成果がここにあらわれているわけなんですが,その結果,割を食っている世代がある。それがまさに20代の後半から30代,あるいは40代の世代でありまして,この世代が忘れられている。今後とも高齢者対策を一生懸命やりましょうということになりますと,さらにお金は若い世代から拠出してもらうということになりかねない。高齢者のところの給付がさらに積み上がっていくという格好になります。

 一体,それで日本の社会が将来にわたってもつか。「全体として高齢者対策はやり過ぎである。これでは若い人たちが可哀相だ」というのが私の率直な感想でございます。もう軌道修正をせざるを得ないのではないか。確かに高齢者対策としてまだ足りないところがあります。それはやらざるを得ません。ただし,そのお金はやり過ぎているところから調達してもらうしかないんですね。やり過ぎているところはあります。医療にしても年金にしてもそうです。これは時間があったらもう少し後でお話をしたいと思うんですが,そういう形になる。他方で,今までほとんど着手していなかった出産だとか子育てに対する本格的な支援に手をつけていただかざるを得ない。これをしない限り,日本の将来はそんなに明るくなりません。

 昭和50年以降に出生率が低下し始めたんですけれども,何が起こったか。40年代と50年代で違いは何か。この間に男女の賃金格差が急速に縮小しました。昭和40年代で20代後半の男女をとりますと,賃金格差は女性の賃金が1としますと男性のそれは1.8でございました。多少とも年齢が高い人と結婚しますと,女性は自分の賃金のほぼ2倍の所得を手にしている人と結婚していました。出産を契機にリタイアしても自分の稼いでいた所得の2倍ぐらいを夫が家庭に持ってきてくれるわけですから,生活水準の低下を避けて生活を継続することができました。

 ところが,昭和50年代以降,男性の賃金上昇が著しく鈍りました。他方で,優秀な女性を活用するということでコストにしても賃金の体系にしてもいろいろな工夫が民間部門でなされまして,結果的に男女の賃金格差が縮小しました(図3参照)。1990年で見ますと,20代後半の男女の賃金格差は,女性の賃金を1とすると男性のそれは1.3でございます。同世代で結婚して妻が出産を契機にリタイアしますと,夫が家庭に運んでくる賃金は妻が過去稼いでいた賃金の1.3倍しかない。1.3倍で子供が産まれて,親子3人ないし4人になって生活できるか。通常の場合,生活水準の低下は避けられません。親からの特別の支援がある人とか財産をたくさん持っている人は例外的な人だと思うんですが,こういう人は別です。普通の人は生活水準を低下させるのは嫌だ,生活は従来どおり維持していきたいというふうに考えまして,しかも子供も産みたい。子供を産みながら生活水準も落としたくないといったら,勤め続けるしかないんですね。子育てをしながら勤め続ける,勤め続けながら子育てもするという選択をせざるを得ないんですけれども,高度成長期に日本の社会は,仕事は男が中心になってやる,家庭は母親が守るといいますか,母親が子育てを担当するという役割分担が明確になりました。高度成長期は若い人たちがたくさん供給されましたので,有能な女性であっても入社3年とか4年になりますと,結婚退職や出産退職を迫るような形で肩をたたいてしまって,男が働いて女性が家庭を守るという社会慣行をつくり上げてしまった。ところが今状況が変わってしまった。子供を産んで育てようとすれば勤め続けるしかない。これが普通の姿になりました。

図3 男女賃金比

 ところが,働き方の仕組みがそれにうまく適応していません。今まで日本の男性は会社に長くいることをもってよしとされていました。会社に長時間いれば,それだけ会社に貢献していると見なされたわけです。この評価システムでいいのかどうか。会社に長くいなければ評価されないシステムだった,あるいは役所もそうかもしれません。5時になったら帰りますと役所で言ったら,多分怒られる人も多いんじゃないか。要するに長時間勤務先にいることが評価されるシステムです。実は長くいても余り仕事をしない人が結構いたわけですけれども,それは不問に付した。短い時間で効率的に仕事をしている人を余り評価しない。長く会社にいる人,勤め先にいる人を評価するメカニズムであった。これが子育てをしながら働き続けることを困難にするシステムの最たる理由です。今後,子育てをしながら会社勤めを容易にするためには,個人と会社との関係,勤め先との関係をやっぱり変えていかざるを得ない。

 もう1つは,出産や子育てに伴ってプライベートなコストが発生します。これには直接的にお金がかかるものと,実質的にはお金がかかっているんですが目に見えた形でお金が出ないものの2つがあります。まず,時間を惜しみなく奪われてしまうとか体力を消耗するという面があります。実は子育ては手抜きができないんですね。家事は手抜きができます。今はコンビニエンスストアだとか掃除をしてくれる人たちだとか,いろいろな形で外注が可能ですけれども,子育ては手抜きができません。会社に行くと男並みに働けと言われます。そして家へ帰ってくると子育てや家事が待っている。夫は家へ帰ると休んでいる。母親は休めない。最近,「オールタイム労働」という言葉を使う人たちがおります。子育て真っ盛りの母親はそういうオールタイム労働の中でくたびれ果てているケースが多い。しかも,自分の好きなことができない。子供に時間が奪われてしまって,自分の好きなことがあっても,それができない。あるいは,体力も消耗してくたびれている。そんなにつらい思いまでして子供を産まなければいけないのかという問題になってきています。

 かつては子供を産むことは義務のような社会であったわけですけれども,今は子供を産むか産まないかというのは個人の選択の問題ではないか,夫婦の選択の問題だという主張が社会的な支持を得るようになりました。子供を産みたくないにもかかわらず産めというのは問題が多いということでございまして,子供を産むか産まないかは個人の自由だと今は認めるようになったわけです。

 個人のレベルではそれでハッピーになれるんですね。自分は苦労してまで子育てはしない,自分の好きなことを自分の時間の中でやる。何も困ることはないということで子供を産まないという人が出てきたんです。かつては子供を産まないと不安が結構多かった。例えば,年をとって自分が働けなくなったときに一体だれに面倒を見てもらうか,子供しかいないという状況だったわけです。それが今は年金という非常にありがたいものが制度化されまして,ぜいたくを言わなければ暮らしていけるだけのお金は年金で保障されるようになった。あるいは,病気をして倒れても介護や医療で面倒を見てくれる体制ができつつあります。年をとっても子供がいなければ困るという状況ではなくなったんですね。

 そうしますと,今の日本の社会で子供を産むのは苦しいし,大変なことだ。そんな苦労をするぐらいだったら,いっそのこと産まない。自分で稼いだお金は自分で目いっぱい使う,時間も全部自分のために使うということが自由になった。その自由を認めた結果,子供を産まないという人がふえてきた。自分に子供がいなくても,他人が産んで育てた子供が年金保険料や医療保険料,あるいは介護保険料等を出してくれる。それにただ乗りできるシステムになっているんですね。年をとったら他人が産んで育てた子供が社会全体としてお金を出してくれる。その上に乗っかれば自分の老後は安泰だという仕掛けになっている。子供を産まなくても一向に困らない社会ができている。子供を産んで育てる人は何の感謝も尊敬も得られない社会なんですね。幾ら苦労しても,「子供は勝手に産んで育てなさい」と言われている。そういう中で,私は子供を産みませんという人がだんだんふえてきております。

 厚生省の人口推計は,どういうわけか出生率は回復するというふうに言っております。男女の賃金格差がまた拡大するということは可能性としてはゼロに近いと思います。マーケットの要請で男女の賃金格差は縮小したんですね。男女で能力に大きな違いがあるとは私は思っておりません。ですから,縮小することがあっても拡大することはないというふうに考えざるを得ない。くわえて子育てをめぐるプライベートのもろもろのコストが非常に大きくなっている。機会費用も大きい,賃金も放棄せざるを得ない,あるいは子育てに伴って子供を大学を出すまでにポケットマネーで2,000万円ぐらい金がかかるというんですね。子供を2人育てると4,000万円のお金が子供にかかってしまうわけです。そういう苦労を承知の上で子育てをしても,社会全体が何の感謝も尊敬も払わないんです。それが今の日本の社会なんですね。子供は勝手に産んで育てなさいと言っているだけです。そういう社会を放置したまま,どうして出生率の反転が期待できるんでしょうか。このままいけば出生率は1.3になり,場合によっては1.1まで落ちていく。

 それでいいのか。個人個人はハッピーかもしれない。しかし,社会全体として本当にハッピーになれるのか。個人の自由を尊重した結果,社会全体が不幸になる。これは経済学の用語では「合成の誤謬」といいます。個人個人の自由を尊重することはそれなりにすばらしいこと,大切なことなんですけれども,その結果,社会全体が深刻な問題をかかえてしまう。こういうことはよくあることでございます。出生率の問題も,まさにその一つの例ではないかということを申し上げたい。

 したがって,出産,子育て支援をこれから社会全体の構造改革の一環でぜひともやっていただきたい。これは個人と企業,勤め先との関係のあり方から始まりまして,夫婦の役割分担の問題,あるいは国の施策の重点の問題等々すべてにかかわることです。これをこれから10年かけてやっていただきたい。具体的な主張は今年の9月6日に読売新聞に「論点」というコラムがございまして,そこに求めに応じて私が書いたものもございます。それを参考にしていただきたい。要するに,子供を産んで育てる行為が社会全体として敬意と感謝に値するようにしてほしいということであります。

 子育てに伴うディスインセンティブをできるだけ少なくする。そうしないと,出生率の回復はないのではないか。それをしない限り,日本の社会は若者がいない社会になっていく。日本全体が子供の嫌いな社会に向かっていってしまう。子供がいない社会に向かっていってしまう。年金のために子供を産んでくださいと言っているわけではございません。日本の将来をどう構想するかという問題ですね。子供を産まない社会に向かっていっていいんでしょうかという問題提起をしたい。若い人がいなくなってしまって本当にいいんでしょうかということを問題提起したいわけです。

 日本の社会経済さえしっかりしていれば,年金や医療や介護はどうにもなります。社会が安定していない国,経済が安定していない国は年金も医療もみんなだめですね。これは,例えば旧ソビエト連邦が崩壊しまして大混乱に陥っておりますけれども,社会保障は一番後回しですね。選挙があると急に現金を届けるようなことをやっておりますけれども,社会が混乱すると,年金や医療はみんなだめになります。

 それから,日本はバブルの崩壊に至りまして何が問題になったかというと企業年金ですね。これはみんな積み立てでやっている制度ですけれども,収益率が低下してしまいました。年金学者の一部には賦課方式は人口高齢化が進む社会では非常に問題が多いから,積み立て方式を採用しろと言っている人がいます。しかし,積み立て方式を採用したって,社会経済がアウトになったら積み立てによる収益も全然期待できません。積み立ててやっていても,経済や社会がおかしくなると収益率が予定どおり上がってこないんです。これに期待したってだめなんですね。賦課方式か積み立て方式かの選択は学者のレベルではいろいろな議論がありますけれども,結局社会経済がしっかりしていればどっちでも同じなんです。要するに社会経済がしっかりしていれば社会保障だってどうにもなります。その点で出生率の低下は非常に悩ましい問題で出産・子育て支援の具体策として,例えば日本にはシルバーシートというのがございますね。電車に乗ったりバスに乗りますと,優先席が設けられています。このシルバーシートは,グレーヘアの人とハンディキャップを負った人の優先席です。しかし,なぜ妊娠中の女性に優先席が与えられないのか。なぜ赤ちゃんを連れている人たちに優先席が与えられないのか。こういう人たちは電車に乗るなということなんでしょうか,あるいはバスに乗るなということなんでしょうか。社会全体が子供は勝手に産んで育てろと言っているように思います。

 昨年12月にたまたまウィーンを訪れる機会がございまして,ウィーンで電車に乗ったんですね。そうしたら,やっぱり優先席があったわけです。そこに4つの絵がかいてありました。当然グレーヘアの人と,それからハンディキャップを負った人の絵がかいてあります。それと並んでお腹の大きい人,それから赤ちゃんを連れた人の絵がかいてあったわけです。ウィーンのあるオーストリアは,出生率の低下を日本よりずっと早く経験しておりまして,それに頭を抱えております。そうした中で,目に見える形で出産・育児支援をしております。

 あるいは,育児休暇という制度も日本にはあります。かつては1年間に限って無給扱いで休暇が取れたんですが,最近の法改正によって25%まで所得を補てんするということになっております。ただし,圧倒的に母親が休んでいるんですね。所得を失うという点において父親の所得と母親の所得を比べると,通例,母親の所得の方が小さいものですから,失うものを小さくするためには母親が結局リタイアするしかないというのが実情です。ところが,母親が休んでいる限り日本の企業は今の働き方をなかなか変えようとしません。男は今までどおり会社に勤めているわけですから。しかも,子育て真っ盛りの20代後半から30代の人たちは企業にとっては中核の戦力です。こういう人たちがずっと会社に来ている限り会社は安泰です。会社は働く仕組みを変えようとしません。しかし,それだと,母親が働きにくい慣行が残ります。

 過激な意見だと思いますが,父親が育児休暇を最低1カ月は取る制度をつくったらどうか。別に1カ月まとめて取れと言っているわけじゃありません。1年の間に1週間ずつ4回取るとか,そういう形でもいいと思うんですけれども,父親が育児休暇をとる仕掛けをつくると,企業と働き手の関係は変わる可能性があります。今までのように会議を長くやるだけの企業でいいのかどうか。だらだら会議をやっている。これはうちの大学もそうです。会議の好きな人がいらっしゃる。会社にいるだけで仕事をした気になっている。それでいいのか。

 会社における拘束時間は9時から5時ですけれども,これももうちょっと弾力化できないか。コアタイムを10時から4時にする。あるいは,もうちょっとコアタイムを少なくして,拘束する時間,どうしてもいなければいけない時間をもうちょっと短くできないか。1日8時間であれば,先に来たり,コアタイムの後ろに来たりして全体として埋めるような形でできないか。

 今の働き方を見ていますと,日本のホワイトカラーは生産性が高いとは言えませんね。まだ生産性をかなり上げる余地があります。要は仕事の成果,実績で評価するシステムをつくり上げれば,会社に長くいなくてもよくなります。会社ではなく家でできる仕事はいっぱいあります。インターネットやEメールがありますから,家で仕事をしていても実績を上げることは可能ですね。ですから,会社にいる時間の長さで仕事を評価するのか,実際に上がってきた仕事で評価するのかということがこれから問われることになるでしょう。そうすると,勤めながら子育てをする環境がもっとできてくると思います。

 行政施策に話を進めましょう。まず,今のような保育園でいいのかどうか。90人とか100人規模で保育園をつくりなさいと言っています。そして公立の保育園が多く,公務員が直接に保育しています。使い勝手が非常に悪いですね。なぜ3人とか5人の保育園があっていけないのか,10人とか30人の保育園があっていけないのか。どうしてもっと使い勝手のいい保育園をつくらないのか。あるいは児童手当という制度がございます。3歳に達するまで月額5,000円,第3子以降だと1万円ですけれども,非常にみすぼらしい制度です。税金の制度では扶養控除がございますけれども,こういうものもやはり全体として見直す必要があるんではないか。

 私は個人的に言いますと,年金の世界で総合的に現金を給付する制度をつくり上げた方がいいと思っております。子供が産まれたら年金制度の中で出生手当をつける,あるいは子供を育てている人には児童手当を年金制度から給付するという仕掛けをつくった方がいいと思うんですね。年金というと,若い人たちはお金を取られるものだとばかり思っています。年金制度に対する支持とか,そういうものがなかなか得られないんですね。これは世界共通です。年金制度の中に児童手当なり出生手当を取り込んでしまえば,若い人たちの考え方が変わるのではないでしょうか。

 現在の年金制度は子育てを何ら評価しておりません。子供が0人であっても3人であっても月給が同じであれば納める保険料も同じです。もらう年金も同じですね。みんなが子供を2人産んで育てた時代であれば,これでよかったわけです。ただ,今は1人も産まない,産んでも1人で止めてしまうという人もいます。そのときに世代と世代の助け合いを本旨とする年金制度が子供の数に関係なく年金の保険料を取り,給付をするという形でいいのかどうか。子育てをしている人には多少の敬意を払っていいんではないか。かわりに子供を産まない人,育てない人,あるいは1人しかいない人には多少とも余分の負担をしていただく。

 大学教育もそうです。文部省から一橋大学や東京大学などの教育機関にバンとお金がついちゃうんですね。学生から入学金や授業料を取るんですが,これは大蔵省にいきまして,学校の経営に直接使う金ではありません。供給サイドからお金を流す制度になっているんですね。公金の使い込みとか女性スキャンダルがない限り国公立大学の先生は安泰です。学生からひんしゅくを買うような授業をやっていても首にはなりません。そういう大学制度でいいのかということですね。むしろ需要サイド,学生にお金を渡して目いっぱい金を取る制度にしたらどうか。学生に大学を選択させる,先生を選択させる制度をもうちょっと活用した方がいいのではないでしょうか。

 これは保育園も同じですね。保育園も供給サイドに金を流しているから,需要サイドの要望に的確にこたえるようなものがでてこない。保育についても受益者負担を原則にいたしまして,しかるべき人にはむしろ需要サイドからお金をつける。保育キップというような制度がございます。幼稚園でいいますと,一たんお金を納めますが,後でリファンドする制度がございますね。それに似たものを保育園でもつくればいい。

 その他,子育てについて社会全体で敬意を払い,感謝をする制度について皆さんにもぜひお考えをいただきたく存じます。

 残された時間で今後の課題を幾つかご指摘いたしたいと思います。

 まず,社会保障財源の総合調整と振替という話でございます。社会保障は総じて高齢者にお金を届ける制度ですが,すでにやり過ぎている面がございます。特に年金と医療をやり過ぎています。しかし,社会保障の施策の重点は今や子育てと介護のはずなんです。そちらにお金をもうちょっと流す仕掛けをつくらざるを得ない。これが振替という意味です。

 それから,年金は年金で勝手にやっている,医療は医療で勝手にやっている,福祉は福祉で勝手にやっている。これを相互に調整する必要がございます。特に給付を調整せざるをえません。

 かねてから退職者に対する失業給付と年金の併給という問題がありましたね。失業給付は,もともと働く意思があるからもらっていたわけなんですけれども,他方で年金はもうリタイアしたと見なすから給付を払うという仕掛けです。同じ省庁でやれば,これを2つとも出すなんてあり得ない。諸外国はみんなそうです。大体,失業保険と年金というのは同じ省庁でやっているところが多い。これを2つとも出すなんてことをやっている国はありません。ところが,日本はたまたま労働省と厚生省に行政が分かれていたものですから,勝手にそれぞれ出していた。60歳になって定年退職した後,失業給付の申請をして失業給付をもらう。それから,年金ももらうということで月に40万円ぐらいをもらっていた人たちが結構いたわけですね。

 これは世界では通用しない話だったんですが,ようやく前回の平成6年の改正時に併給は調整するようにしましょうということになりました。これが第1弾だと思うんですけれども,例えば病院に入院している年金受給者がいます。病院に入院している年金受給者は食事をとったりベッドを専有したり電気を使ったりしてます。いわゆるホテルチャージ相当分がかかっています。生活費に相当する費用は年金を出しているわけですから,年金で払ってもらうのが当然だと思うんですが,日本の医療保険制度は生活分も医療保険の中で給付している。病院に入院している年金受給者は医療保険の中から生活相当分を現物給付で受け取る一方,現金でも年金をもらっています。これも年金と医療を別建てでやっている,同じ省庁でありながら局が違うというだけで平気でこういうことを今までやってきた。そんなことをやっていていいのでしょうか。

 あるいは,老人福祉施設,特養に入所している人もそうですね。生活分は福祉の方で全面的に手当しています。ホテルチャージ相当分は福祉の方で財源手当をしています。他方で年金は年金で出している。生活費を2カ所からもらうことになる。それが放置されている。そういう余裕はもうなくなってきたはずでありまして,社会保障給付をもっと総合的な観点から調整するということをせざるを得ない。

 2点目は新介護システムの創設ということでございまして,これはここ1,2年急速に議論が高まっております。

 日本経済新聞の「やさしい経済学」というコラムに9月11日から6回ほど書きましたけれども,重要な論点を2点指摘しておきました。1つは,市区町村長さんの反対が非常に強いということでございます。介護の実施主体,保険者は市区町村にするということになっておりますけれども,市区町村長さんの反対が非常に強い。表向きの反対理由は国保の二の舞になるんではないかと,お金の手当をどうしてくれるんだという話になっておりますが,これは知恵さえ出せば解決可能な問題だと思います。

 本当の理由は別なところにあります。役所の人たちには選挙という洗礼がないんですね。自分の身分が剥奪されるということがないんですけれども,市区町村長さんは選挙で当落を争うことを常に余儀なくされています。市区町村長さんは介護で落選したくないという言い分をお持ちです。もう少し敷衍しますと市区町村で介護に対する実施体制には濃淡がある。早くから先行実施していた市区町村と,どちらかというと今まで余りそちらを重点的にやってこなかった,整備が遅れている市区町村がある。今,介護を立ち上げるに当たって厚生省の示した案によりますと,介護は全体としてサービスが12種類あります。6段階さまざまな給付を差し上げますということを約束しようとしている。中身を見ますと,かなり包括的でありまして,多種類のサービスメニューが用意されているわけですね。

 介護保険の立ち上げに当たって,これを一挙にやれと言われると,なかなか対応できない市区町村がある。国は勝手にきれいな絵をかいて,それを市区町村に実施しろというふうに迫っている。しかも,制度は保険です。保険である以上,保険料を納めた人は手さえ挙げればみんな給付が得られると思っている。今までは税金を主体としたものだったわけですから,困った人から優先順位がおのずから与えられていました。税金だから仕方がないとあきらめていたんですが,今度は万遍なく保険料を納めるということになるわけですね。保険料を納める以上,手さえ挙げれば自分は絶対に給付をもらえると思っています。

 ところが,市町村の中にはそれができないところがある。保険者の代表である市区町村長さんは要介護認定に当たってそれぞれの地方自治体の実力に応じてやらざるを得ない。そうすると,手を挙げても保険給付が得られない人が出てきます。そういう人たちは,うちの町長なり村長さんは何やっているんだという話になって,選挙において反対勢力に回る。そこを中央レベルの役所のプランでは配慮していないのではないか。最初からきれいな絵を描き過ぎていないか。

 むしろ,最初にできることは限られています。徐々にできることを多くしていくという発想でやったらどうか。最初は重度の要介護者だけで制度をスタートさせる。中度,軽度の人は申しわけないけれども,少し我慢をしていただく。供給体制が整備されるに伴ってそういう人たちも随時給付対象として拡大していくという形をとれば,恐らく市町村長さんの反対はおさまるんではないか。今優先順位が高いのはまさに重度の要介護者だと思うんですね。そういう人たちのために一刻も早く制度をつくっていただきたい。早く実施した方がいいに決まっています。

 それから,今介護で第2の反対勢力として登場しているのは事業主サイド,経営者です。これはドイツで介護保険を立ち上げるときにも大問題になりました。事実上,有給休暇を1日減らすという形で決着したわけですけれども,日本でもこれが大問題になっています。事業主負担を法定化してしまいますと,サラリーマン本人は半分しか保険料を負担しないという形になります。これは法律上そうなるんですね。経済的には別だと私は思うんですが,法律上そうなる。そうすると,国保に加入している非サラリーマンも保険料の半分は公費でもてという要求になるざるを得ない。これは今の国民健康保険でそうやっているわけですから,そういう要求にならざるを得ない。

 そうすると,65歳未満のところは保険料負担をしなさいよと言っても,半分は事業主が負担したり,公費で負担する形になる。ところが,65歳以上の人は丸々保険料を払えという仕掛けに今のところなっているんですね。若い人たちの2倍の保険料を年金受給者は払いなさいといっても,政治的に通らないでしょう。なぜ自分たちは若い人たちの2倍の保険料を払わなければならないのかということに当然なるわけです。選挙を意識すれば高齢者を味方につけるしかないわけですね,政治家は。高齢者だけをむち打つような制度でそのまま押し切れるでしょうか。

 結果的に,高齢者も保険料で本来負担しろと言ったものの半分しか負担しない形になる可能性が強い。すべて事業主負担を法定化することがスタートなんです。むしろ,保険料は個人負担です,基礎年金の保険料拠出と同じですよというふうに言えば,本人の利用者負担金を除いた共同負担分の半分を公費で負担し,他の半分を保険料で負担するということになります。しかし,事業主負担を法定化すると,その半分の負担のうち,さらにその半分を保険料で本人が負担することになる。そうすると,介護給付に必要な財源のほぼ4分の3が実は公費負担の制度となってしまう。そういう制度が社会保険制度であると言えるのか。どうしても保険だと言いたいんだったら,せめて半分は保険料負担にした方がいいのではないか。そうであれば,事業主負担の法定化はやめる,これは労使に任せるということです。

 それから,介護を新しくセットすることによって医療保険の方で当然調整が起こります。その調整がどういう形で起こるかを厚生省の資料で解説したいと思います。

 表3の平成13年度を見ていただきたい。一番右サイドですね。給付費は全体として3兆7,200億円ないし3兆9,300億円です。そのうち保険料負担が1兆8,600億円,1兆9,700億円になるんですね。ただ,医療保険の方で現役の人たちの負担が1兆2,000億円強減ります。国保は介護保険料を入れることによって負担が4,100億円から4,300億円ふえると言っているんですが,医療保険の方で保険料負担が4,800億円減りますから,全体として負担が減るんですね。

表3 介護保険負担額と医療保険負担減少額(試算)

 政管健保と組合健保はネットでいえば介護を入れることによって負担がふえますが,差分はわずかなものです。組合健保でいいますと,負担がふえるのが3,100億円から3,300億円ですね。負担の減が2,800億円ありますから,ネットで300億円とか500億円とか,その程度しか年額で負担増にならないわけです。介護保険料負担額が全体として1兆8,600億円から1兆9,700億円ふえると言っているんですが,負担の減少が医療保険の方で1兆2,000億円ありますから,負担の純増は6,500億円とか7,600億円なんですね。その大半を負担するのはだれかというと,うち第1号被保険者分(65歳以上)というところに書いてあります。このグループが6,200億円とか6,500億円負担します。

 介護保険を新たにセットして医療保険と調整を行うということはどういうことかというと,今まで医療のラベルのもとに実質的に介護をやっていた部分を介護に分離独立させますよということですね。それによって医療保険の負担を減らすということです。他方で,65歳以上の人は基本的に年金受給者なんですが,年金を支給する際に介護保険料を差っ引くということが基本的なやり方です。これは事実上,年金給付をカットするのと同じです。介護を保険という形で入れるとどういう効果があるか。その分医療費の節約が起こり,年金の方で事実上給付カットが起こるということですね。あわせて高齢者が負担に参加する仕掛けができ上がります。

 税金で介護をやろうとすれば,これはなかなか容易ではありません。高齢者から税金を納めていただくというのは決して容易なわざではありませんね。ところが,保険制度でやればこういう形でお金を用意していただけます。あるいは,実際に介護給付を受ける段階で利用者負担金という形で高齢者も負担に参加していただく。将来的に見ますと65歳以上は日本人口の3分の1になると予想されているんですね。その人たちがみんな御輿の上に乗っかって,若い人たちに御輿を担いでくださいという制度ではなかなか動かない。やはり高齢者も負担に参加してもらうということが極めて大切です。介護保険法というのは,まさにそれを念頭に置いたものなんですね。今申し上げましたように,若い人たちの負担純増枠はほとんどないに等しい。大半を高齢者が負担するという形になっています。高齢者が負担に参加する仕掛けになっているということが介護保険法の最大の特徴ではないでしょうか。

 時間が押してまいりましたので,駆け足で進みます。年金と医療のスリム化の問題に入ります。年金は制度改正したばかりですからすぐにはできません。ただし,まだ肥満ぎみなところがあります。例えば,夫婦2人で共働きをやった人たちだと年金を月額40万円ぐらいもらっている人が多い。若い世代が拠出して給付する年金額としてこれだけあっていいのかどうか。あるいは,サラリーマンを普通にやったOBは今20万円プラスアルファの年金を受給しております。大卒の初任給はまだ20万円に届いておりません。国際会議等でこういう日本の実態をお話ししますと,実は信じてもらえません。公的年金の世界でそんなことがありようがないというふうにおっしゃるのです。日本はそういう世界の非常識を実はやっているんですね。

 年金受給者には年金が偶数月の15日に振り込まれるんですが,金融機関の窓口にみんな殺到するなんていうことは日本はありませんね。全部下ろすという人もいない。大体みんな預金し続ける。あるいは,預貯金の積み増しさえしている人がいます。預貯金の積み増しを可能にするような年金を若い人の負担で出しているというのも変なものでありまして,やはり給付をさらにスリム化する必要があるんではないか。高額年金の一時スライド停止だとか,満額年金の支給要件は今40年ですけれども,これを45年に延長するとか,あるいは共働きの人たちの年金をモデル年金化しまして,それで年金水準が果たして妥当かどうかということを議論せざるを得ません。

 医療については,無駄な薬をもらっているケースもありますし,終末医療等でめちゃくちゃなことをやっておりますね。気管切開をしたり,ハートアタックを繰り返したり。1分1秒でも長生きしてもらうと,亡くなるまで年金をもらい続ける。若い人にそのお金が入ります。動機不純の人が喜ぶ制度になっておりますけれども,これもよくない制度です。人間の死に方というのはなかなか難しいんですけれども,例えば自分で金を払えと言ったら,あんな気管切開をすることまでみんなやってくれと要求するかどうか。他人につけ回しをしているから,1分1秒でも長生きするために何でもやってくださいということになっているんではないか。人間としての品位はない状態ですね。動物といいますか,スパゲッティ症状とかいって管がいっぱい詰まっている状態で,ただ動物として心臓が動いている。そういう状態を維持して月に300万円とか500万円,平気で請求書が来ます。そういうのはやっぱり改めざるを得ない。基本的に窓口負担を今後とも引き上げるという方向しかないというふうに私は思っております。

 あわせて,各保険者団体が保険医を自由選択する制度,これをやはり導入する必要があります。保険医という認定を厚生省がしたら,その人が届ける請求書はすべて受け取らなければいけないという仕掛けはやはりおかしいんですね。保険者は金を払う責任を持っているわけですから,金を払っていい人を選抜する自由を与えるべきです。ひどい請求書をいっぱい回してくるような保険医は今後断ると。もっと自分たちがいいと思う保険医を使ってくれというふうに自分の従業員なり関係者を指導できるような体制にする。誤診もいっぱいあります。そのつけ回しを保険者にしているようなお医者さんは商売できなくなるということではないんでしょうか。あるいは70歳を超えても保険医をやっているような人が結構いますけれども,そういう人たちの生活保障のために本当に保険医としての資格を与えて営業させなければいけないのかどうか。

 保険者が保険医を選択するということは,裏返していえば保険医として契約を拒否できるグループが一方にいる自由を与えるということです。そうすれば,日本の医療に関しては物すごい緊張感が走ると思いますね。もしかしたら,これは日本医師会さんがストライキをして抵抗するお話かもしれません。ただし,いずれにしても医療費の無駄を省く,年金の無駄を省いてそれを介護に使う,あるいは子育てに使うためには,そういう方向にシフトしていかざるを得ない。

 負担増のタイミング問題は,これは昨年の経済白書が提案したものでございます。まだ日本は高齢化の5合目だから,少しずつステップ・バイ・ステップで負担を上げていけばいい。従来日本はこのようにやっていたけれども,そうではなくて将来の世代の負担が高いとわかり切っているんだから,今の世代が少ない負担で済まそうとするのは問題ではないか。この問題提起を昨年の経済白書がしています。将来の負担が高くなるとわかっているんなら,むしろ今一挙に負担を上げろと言っているんです。その後,負担を固定して,どの世代も同じ負担になるようにしたらどうかというのがタックス・スムージング仮説や世代会計というアプローチのもとで昨年の経済白書が余り露骨に言っておりませんけれども,提案しようとしていたラインですね。

 実は私はこの考え方に反対です。先ほど言いましたように,現役の人たちの生活水準を着実に上げていくことが私は一番重要なことだと思っております。一挙に負担を上げると,そこで生活水準が落ちこみます。それでいいかというと,これは政治的にはなかなか受け入れられないし,それでいいとも思わない。やはり現役の人たちの懐具合,あるいは企業の懐具合と相談しながら保険料を上げていくという形しかない。そうすると,年金の保険料を5年に1回,2.5%ずつ上げるなんていうのは,もってのほかの考え方ですね。これは厚生省の年金局だけの考え方です。年金の論理から言えばそれが必要だということになっているんですが,私は年金の保険料を5年に1回,2.5%も上げる必要は一切ないと思っております。給付を調整する話が当然あるわけですし,財源においてもどういう形がいいかをさらに検討する必要があります。一挙に2.5%ずつ上げていくというのが賢明だとはどうしても思えません。むしろ,現役の人たちの懐具合,あるいは企業の懐具合がこの問題のエッセンスだというふうに思っております。

 世界における社会保険料の負担問題というのは若者をいじめてはいけない,それから企業をいじめてはいけないということなんです。そこをうまくできるかどうかにかかっているんですね。やはり給付を見直す。先ほど言いましたように,給付をスリムにしていかざるを得ない。あわせて高齢者にも応分の負担をしていただく。年金給付から介護保険料を負担するとか,病院だとか介護の窓口でしかるべき負担をすることをお願いせざるを得ません。

 それから,表4は現役の人たちの生活水準を上げていくためにどのくらいの賃金増が必要かということを解説したものでございます。1995年と2030年,35年の時差を含めた2時点の表でございます。公的な負担,年金にしろ税金にしろ負担を上げていかざるを得ない。その負担増を飲み込んでもおつりが来る賃金増というのはどのくらいかということを調べたものでございまして,95年段階で税込み賃金が100だといたしましょう。この時点で税金や社会保険料を合わせて16%負担しております。手取りは84です。その8掛けで年金を68出します。

表4 公的負担増と現役の実質手取り月収

 35年たって賃金はどのぐらいなのか。これは,賃金が毎年どれだけ上昇していくかにかかっています。年率で2%ずつ上昇していくケースが最初のところに書いてあります。この2%は物価上昇分を含まない実質の上昇分だと考えていただきますと,生活水準の上昇につながる話になります。年率2%で複利で回しますと,35年でちょうど2倍になりますから,税込みの賃金は200になります。負担はいろいろ考え方があるんですが,非常に乱暴に35年後に公的負担は倍になる,16%から32%になると仮定しますと,公的負担は64,手取り賃金が136です。そうしますと,年率で2%賃金アップしていけば,負担が倍になってもおつりが来るということですね。将来,我々の子供の世代,孫の世代は今の世代より確実に豊かになることが担保されるということです。

 担保されないのは,年率0.6%しか賃金上昇がない場合です。この場合,グロス賃金は123にしかならない。負担が倍になると39にふえます。そうすると,手取りが84ですから今と変わらないということですね。賃金が年率で平均0.6%しか実質上がらないケースでは現役の人たちは「成長感なき社会」に置かれてしまう。

 日本は幸いなことに生産性を上昇させる余地がまだあると思います。労働生産性が年率で2%ぐらい上昇する余地があるとすれば,負担増があっても,それを飲み込んでおつりが来ます。我々の子供や孫の世代が確実に豊かになるという担保があるということではないでしょうか。

 若干時間をオーバーしていますが,最後に会計検査との関係に触れたいと思います。年金や医療等をめぐって会計検査院がいろいろな努力をして検査体制を充実させています。新しい問題点として3つほど今日は指摘したいと思うんですが,年金において平成6年改正でボーナス保険料を徴収することになりました。ボーナスは年金給付にリンクしておりません。ボーナス保険料はこれまで政管健保の加入者からは徴収していたんですが,組合健保の加入者からは徴収していなかった。給付につながっていないために,正直に納付しているかどうかがわからない。納付をサボっても恐らく社会保険庁ではチェックできない。ボーナスを幾ら払っているかという書類を社会保険庁は持っていません。ですから,ボーナス保険料を取っているんですが,それが正直に納付されているかどうかわからないわけですね。これは税金と一緒に調査しないとわからない話でありまして,この点の工夫が何らかの形で行われていくことを期待したい。

 第2に,先ほど言いましたように偶数月の15日に年金を払い込むことになっておりまして,年金受給者は今全国で3,000万人ぐらいいるんですけれども,すべての年金受給者に2カ月に一遍ずつ「あなたの年金,何月何日に幾ら払い込みました」という通知を社会保険庁が今出しています。もらう通知は年6回全く同じです。年金受給者は自分の月給日みたいなものですから,偶数月の15日なんてみんな知っているわけです。これを忘れる人はいません。にもかかわらず,役所はご丁寧なことに年6回同じ通知を差し上げている。こんなことをやっている国は日本しかありません。アメリカもイギリスもスウェーデンも,私が調べた限りでは年金の支払い通知は年1回しか出しておりません。年金の支給日はみんなわかっているからです。物価スライドを通して今年の年金額は幾らだということを年1回通知すればわかるはずです。

 ところが,日本は会計法の縛りがあって,公金を支出する際にはその通知をしなければいけないということになっておりまして,シール問題も起こりました。この通知を出すために社会保険庁の職員は物すごいエネルギーを使っております。これは切手代を当然使うわけですから郵政省をもうけさせているわけですけれども,そんなことをどうしてしなければいけないのか。聞くところによると,これは会計法の縛りだと言っているんです。年6回同じ金額を振り込むんだったら,なぜ年1回の通知で済ませられないのか。そういうことをやはり考えていただきたい。

 第3に,国民年金の保険料は2カ月分を1回にまとめて徴収しておりますが,これを国に納める段階では収入印紙で納めろということになっています。実際は現金で納めてもらっている金です。これを一々全部収入印紙に変えて納めるということをやっているんですが,これも会計法の縛りだというふうに聞いております。なんでこういうことを手間暇かけてやらなければいけないかというのが市町村の関係者の率直な意見です。現金でもらったものは現金でどうして納めてはいけないのか,なぜ収入印紙に変えなければいけないか。2カ月に一遍ずつ収入印紙をべたべた張る作業を市町村ではやっています。収入印紙を買うところが遠い町村も結構ある。そうすると収入印紙を抱えている人たちは強盗に襲われるのでないかという危険を冒してこういうことをやっています,2カ月に一遍。なぜこんなことを縛らなければいけないか。

 時間がまいりました。非常に舌足らずなお話でございましたけれども,参考文献の『貯蓄と資産形成』(岩波書店)という本は今年出したばかりでありますが,大変ご好評をいただいております。皆様にもぜひご一読をいただきたく存じます。ご静聴ありがとうございました。(拍手)

(注:本稿は平成8年9月19日に行われた講演の速記録である。)

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