第12号

科学技術と大学
谷 吉樹

谷 吉樹
(奈良先端科学技術大学院大学副学長)

*1941年生まれ。京都大学農学部卒,同大学大学院農学研究科修士過程修了。京都大学農学部教授等を経て、93年より現職。日本農芸化学会,日本生物工学会,日本ビタミン学会,日本生化学会等に所属。

 主な著書は,「応用微生物学」コロナ社 1992年,「バイオコンバーション」医学出版センター 1993年。その他徹生物機能の利用に関する著書・論文など。

1.はじめに

 1995年は,1月17日の阪神・淡路大震災で明け,つぎつぎと耳目を驚かせる出来事が続いている。おりしも日本の経済は,1951年11月にはじまる特需景気以後の10度にわたる景気拡大期が1977年1月に終わった後,実質をともなわない金融景気に続いてもたらされた長引く不況,そして円高が、重苦しくのしかかっている。産業構造の変化にともなうこの不況の打開策,さらには,21世紀に向けた立国の方向性についてのさかんな議論がされるなかで,科学技術,特に,基礎科学の重要性を強調する意見が多いように思う。基礎科学研究と高等教育の中核である大学においては,いま戦後最大の変革期を迎えているといえる。教養部の廃止,学部改組,カリキュラムのあり方,大学院の充実,管理体制の見直しおよび自己評価・点検の導入など,ほぼ大学機能の全般についての変革が,学内と学外のニーズおよび大学人の責任感に基づいて進められている。

 本稿では,自然科学系の一大学人として,産業と科学技術の将来を考慮に入れたいくつかの観点から,わが国の大学の現状と将来について,新たに設置された奈良先端科学技術大学院大学(NAIST)(注1)の紹介をまじえて,最近感じていることを述べてみたい。

2.産業の方向と大学

(1)産業の変遷

1980年に44億人弱であった世界の人口は,1987年に50億人を突破し,さらにその後も増加を続け,2000年には64億人に達するものと予想されている。過去,農業革命および産業革命によってもたらされた生産力の驚異的な成長が人口の増加をもたらし,さらに,近年のいわゆる緑の革命が,開発途上国の農業生産力を飛躍的に高めた結果である。科学技術の将来を考える上で,グローバルな人口問題を念頭に置かなければならないのは言うまでもない。

 人口の変化とともに,科学技術の進歩は産業構造の変化につながる。第2次大戦後の日本産業の興亡をふり返ると,リーディング産業とよばれる業種の変化の激しさに,いまさらながら目を見張る思いがする。この変化は,学生の就職人気業種の変化としてもとらえることができる。

 戦後間もない昭和20年代は,石炭,鉱山,海運が花形であった。30年代になると,繊維,製糖,肥料,セメントなどが中心となり,ついで造船,鉄鋼が脚光を野び,やがて40年代の石油化学の時代になる。家電と自動車が,日本産業の象徴としての地位を占めてきたのも40年代以降である。約500兆円に達する国民総生産(GNP)は,主として,このような第二次産業の成長によってもたらされたものである。一方,40年代後半からは,商社,金融機関などに人気が集まり,いわゆるバブル経済に結びついていった。最近成長がにぶったとはいえ,外食産業の売り上げは27兆円にのぼる。今日,産業の空洞化,学生の自然科学系離れが,軌を一にして語られるのは,このような流れのなかで生み出された現象である。

(2)未来産業

 これからの日本産業,これからの成長産業の方向を予測することは,専門家であっても難しいことであろうが,科学技術の立場から敢えてあげるとすれば,新しい3つの方向があるように思う。

 1つは,便利さのさらなる追求の方向である。農業革命,産業革命に次いで,現在は情報革命の時代であるという意見がある。マルチメディアの市場は郵政省は120兆円と予測している。マルチメディアが多くの国民にとって高いニーズを持っているのか,かってのニューメディアブームのようにならないのかという疑問も持たれてはいるが,半導体などのハードウェア技術と体系化のすすむソフトウェアの科学がもたらす情報化社会は,非常なスピードで前進していることは間違いない。情報産業,ソフト産業は,現在の成長産業である。

 もちろん,このほかの産業においても技術革新による成長は絶えずはかられており,新素材開発はそれらの産業のキーテクノロジーといえる。これらの産業は,便利さを追求するかぎりにおいては,効率と豊かさを追求してきたこれまでの文明社会の産業の延長線上にある。

 2つめは,現在の文明の維持を課題とする方向である。開発途上国の発展を含めて人類の緊急の課題は,エネルギー・資源,食糧の将来にわたる確保である。

 燃料,化学製品の原料の多くは石油に依存している。第一次産業である農業においてさえ,石油への依存度は低くはない。石油の需要は現在年間220億バーレルである。可採埋蔵量が7〜8,000億バーレルといわれており,新油田の開発,三次回収技術の確立を期待するにしても,有限の化石資源への全面的依存は危険である。ウランおよび石油の数百倍の埋蔵量のある天然ガスも,将来的には限界がある。代替エネルギーの開発,新資源の追求は当面の課題であり,リサイクルを可能とする恒久的な解決を目指した産業の創成は必須である。

 食糧についても,現在の地域的に発生している飢餓が,政治と流通にその原因の一端があるにしても,爆発的な人口増を予想すると楽観は許されない。特に,タンパク質の不足は深刻である。また,70万ヘクタール弱の減反政策により,1,000万トンの生産がほほ安定していた日本の米が不足した,一昨年の異常気象は,記憶に新しい。生存の根幹である第一次産業の重要性は当然であるが,さらに安定した効率的な食糧生産産業も追求すべきであろう。

 3つめは,健康を中心とする方向である。1929年にペニシリンが発見され,1935年にはサルフア剤が合成され,病原菌に起因する疾病の化学療法は確立されたが,決定的な治療法がまだ見つからない疾病はいくつも残されている。加えて,これから迎える高齢化社会においては,生命維持のバランスの乱れによる病気からの回復をはかることも大きなテーマである。新しい医薬品の開発は,微生物がつくる抗生物質,化学合成から生み出される化学物質などの従来型に加え遺伝子組換え技術を利用する生理活性物質を対象に,また,治療を支えるための医療材料の開発は,今後も続けられよう。

 さらに,健康は病気だけでは語られない。より快適な生活を送るための方法を提供する健康産業のニーズはさらに高まると考えられる。これらの産業は,いずれも基礎科学としての生命科学の成果を利用したかたちで成長していかなければならない。

 以上,従来産業に加わる未来産業の方向を筆者の興味に基づいて考察したが,この方向性の共通した基盤として,「環境」というキーワードでくくってみたい。

 1960年代に,地域的な環境破壊としてクローズアップされた公害問題,1988年のサミット以来取り上げられた地球環境問題は,人類の生存にかかわる重要問題であることはいうまでもないことである。1950年には16億トン余りであった人為的な炭酸ガス発生量が,1993年には60億トンにも達していることによる影響は,単に地球温暖化現象にはとどまらないであろう。メタン,フロン,プラスチック廃乗物,酸性雨,砂漠化など地球規模の環境問題は多彩である。

 リメデイエーションと呼ばれる改善のための技術開発は,これらの問題に対応するために取り組まれ,新しい技術さらには産葉として発展している。しかし,ここでいう「環境」はもっと広い意味をもった価値観として使いたい。

 産業全般にわたって「環境」という概念を導入することは,ひとことでいえばパラダイムシフトである。「共生」を,より具体的に科学技術の面からとらえることである。

 現在よりも豊かな生活を送ることは,本能的な人間の欲望である。そのためにこれまでそそがれた科学技術発展のためのエネルギーは膨大である。豊かな文明生活を享受している先進国社会は,開発途上国の目標である。この豊かな生活の結果からもたらされる諸問題が,これからの人類の生存そのものを脅かしつつあるといっても過言ではない。これは単に環境汚染にはとどまらない。すべての産業において,少々低いレベルではあっても永続でき,また,豊かな精神生活を営める方向へのパラダイムシフトが必要ではないだろうか。

 上述の便利さの追求は,その後始末−リサイクルを出発点で考慮に入れるべきであり,資源・エネルギーは,未来を見据えて新しい方策を練るべきであり,飽食社会の幻影は,断ち切られなければならず,健康についても,共存の立場が強調されるべきである。これまで産業界において行われてきた個別的技術開発ではなく,グローバルな視点からの体系的開発が必要であるともいえる。OECDにおける環境技術に関する最近の論議は,リメデイエーションから,予防さらには根本的解決を指向したプリベンションヘと移行していると聞いている。

 NAISTでは,情報科学,バイオサイエンスの分野に加えて,先端科学技術の3本柱である新素材関係の研究科を,このような方向で設置することを検討しているところである。

(3)研究開発における産業と大学

 日本の科学研究費は,1993年度においてGNPの約3%,14兆円である。この金額は米国と比肩し得る額である。しかし,このうち政府が支出する研究費は20%にみたず,40%を越える米国,フランスとは隔たりがある。産業界が支出する研究費が占める割合が,きわめて大きいのが特徴である。なお,大学に文部省から支出される教育研究費は,恒常的な校費と科学研究費補助金(科研費)が主である。選ばれた研究に対して与えられる科研費は,数年来急速な伸びを見せ,1995年度は補正予算を含めて970億円を越えている。しかし,研究者数も増加しており,公募方式の科研費の採択率は20%台に過ぎない。

 大学の研究費をはじめとする公的研究費が少ないことについては,ここではこれ以上言及することは避けるが,これまでの産業の発展に果たしてきた大学の貢献を,過小評価するつもりもない。むしろ少ない予算でよくやって来ているというのが,大学の中にいるものとしての実感である。

 基礎原理を工業的に活用するための応用研究は易しいことではなく,高いレベルが要求される。日本の企業の目的研究のレベルの高さは,分野にもよるが全般的に目を見張るものがある。大学の応用研究分野のレベルも決して低くないと思う。しかしながら,基礎研究ただ乗り論は,依然として一面の真理である。次に述べるように,基礎科学と応用科学の境界は,なくなる方向になると考えられる。

 上に述べたように,未来産業の方向がグローバルな視点からの体系的開発を基盤とするならば,産業に対する大学の役割は飛躍的に増大するはずである。そこでは,経済学をはじめとする社会科学さらには人文科学をも包含したかたちでの大学の研究体制が不可欠であると思う。

(4)産学共同

 「産学共同」ということばは,かって特に1970年前後の大学紛争を頂点として大学では,忌みことばのように取られていた。最近では,科学技術を進展させるための企業と大学の共同作業はより積極的に行われだしている。企業=悪,学問の自由,大学の自治という観念を越える企業と大学のニーズの結果であろう。もっとも文科系を持つ総合大学ではさまざまな歯止め,制約が論議されているようではあるが。また,大学側が研究費欲しさに企業にすり寄る姿勢がないとは言えないが。

 大学の持っている応用可能なシーズあるいは基礎科学を産業界のニーズとドッキングさせ,新たな科学技術の進展をはかるプロセスは,これまでの日本ではかなり限られたものであった。相互の人脈に頼ることによって個別に行われていた例が多く,組織的な取組はほとんどなされていなかったのではないか。

 欧米,特に,米国では,それぞれの大学に窓口機関を設けるとともに,学長自らシーズの売り込みに行脚するという方法をとっている大学も少なくない。日本でも,最近私立大学において,窓口機関を設けて積極的な取組を始めているところがある。国公立大学においても共同研究センターおよび寄付講座の設置など具体的な方策が模索され,特に,地域産業の振興を支援する姿勢は,強くなってきている。

 NAISTでは,先端科学技術研究調査センターを1994年6月に設置し,産学共同に積極的な対応策を打ちだしている。

 このセンターは,単に共同研究の場を提供するのではなく,大学のシーズと企業を中心とする社会のニーズを,積極的にコーデイネートするためのリエゾンオフィスとして機能する。科学技術の動向および政策等についても調査し,NAISTのシンクタンクとしても位置づけることができる。企業出身の研究者が,センター長・教授に就任し,学内のシーズの収集とその学外へのPR,技術相談業務を手始めに,さまざまな活動を開始している。また,産学共同研究において避けることができない知的所有権(特許)について,大学側の考え方と取扱方法,外部資金を導入する場合の法的問題点等についての研究も進行している。

(5)ベンチャービジネス

 大学のシーズを産業化するためのより直接的な方法は,大学人によるベンチャービジネスの創設,創業である。不況の続くなかで,産業のさらなる発展と産業構造の変革を求める方向として,起業家の出現を待望する声は産業界において大きい。

 先端科学技術分野を中心として,米国で盛んに行われている大学の研究者によるベンチャービジネスが,なぜ日本では育たないのかという議論がそこここでされている。フロンティア精神が欠けているからという精神論から,勤務時間の制約という技術論までさまざまであるが,確たる方策はまだないようである。現行の教育公務員特例法のマイナスの役割を指摘する意見もある。

 今年度の補正予算で,ベンチャービジネスを促進するための政策が取り入れられているように,今後,より効果的な方策がさぐられるとともに,大学人の意識変革が進むことが期待される。

 NAISTの周辺には,広大な土地が広がっており,やがてこの地が,カリフォルニアのシリコンバレーとなることを夢見ている。

(6)社会人の再教育

 大学の産業に対する役割の大きな部分は,人材の供給である。これまで,多くの卒業生が,大学から企業に送り込まれている。日本の産葉の発展の要因のひとつには,従業員の教育レベルの高さがあげられる。

 一方,卒業後企業などで働いている社会人に対する再教育が,社会の大学へのニーズとして最近高まっている。産業構造の変化が激しくなるにつれ,このニーズは,特に,大学院に対して,より強まることが予想される。

 これまで,受託研究員,研究生として受け入れていた大学は,学位を取れる学生として受け入れる制度に変化しつつある。NAISTでも,新しい産業の創成のために,大学が産業に貢献できる方法として,企業在籍のままでの入学に,積極的に取り組んでいる。学生の中には,積極的な転職の方法としてこの制度を利用するため,今の職場をやめて入ってくる例もある。

3.大学の研究

(1)産業に貢献する基礎科学

 科学に基礎と応用,あるいは,純粋科学と応用科学のレッテルを張りつけることは難しいのではないか。少なくとも科学者は,何らかのかたちで人類の福祉に役立つことを意識して,研究を業務として遂行していかなければならない役割を持っていることは否定できないと思う。

 この意味で,基礎科学に没頭する合間に応用の可能性に思いをはせるセンスが,要求されるのではないか。先端科学技術と呼ばれる分野では,ことさら基礎と応用の境目がせまく,さまざまなベンチャービジネスが活躍する場が用意されている。

 一方で,新たな産業,製品が生み出される要因として,基礎科学の最新の成果を直接に利用した結果によっている例が増えてきている。医薬品開発での2,3の例を挙げてみよう。

 高コレステロール血症治療薬として1,000億円をこえる市場を形成している医薬の開発は,コレステロールが体の中で合成されるルートが明らかになり,しかもそのルートのキーポイントが特定された結果である。ターゲットのコレステロール合成酵素の阻害剤が,微生物の生産物の中から探しだされた。

 前立腺ガン治療薬などとして利用されている医薬は,ホルモンによる生命のバランスの仕組みの一端が明らかになったことによりデザインされたものであり,最新の合成化学の技術および体の特定の場所に薬剤を運搬するシステム(DDS)を取り入れることによって完成した。

 臓器移植後の拒絶反応を抑える医薬は,外部からの侵入を守るための免疫の仕組みが急速に解き明かされることによって生まれた。すなわち,逆にその免疫の機能を抑えれば,拒絶反応が抑えられるのではないかというアイディアに基づいて開発された免疫抑制剤である。

1973年10月以来の3度にわたる石油危機が,日本の産業にさまざまな影響を与えたが,その対応策のひとつが,企業の基礎研究指向であった。基礎研究所が,つぎつぎと設立された。しかし,最近になって,目的研究を義務づけられる企業研究の体質が,基礎研究部門を支えられなくなり,またつぎつぎと,撤退,改組が余儀なくされている。

 基礎研究を大学に依存する考え方は,以前にもまして強くなっていると思われる。そのため,研究者自身が,応用面から自らの研究を評価することが必要とされる。とはいっても,応用への発展を思いつくのは,基礎ひとすじの研究者にとってはなかなか難しいようである。上述の,NAISTの先端科学技術研究調査センター設置の意義の重要なポイントは,この点にあり,大学において行われている研究の成果を,産業のシーズとしてとらえようとするものである。

(2)遊びの科学

 最近の「基礎科学が重要である」とさかんに言われている言葉には,多分に,応用のためのそして産業のための基礎という意味が込められている。その重要性については上に述べた。

 一方,科学の進歩が,科学者の興味と好奇心を原動力としてきたことも事実である。何のためにその研究をやっているのか。面白いからだ。実に純粋な科学者の姿勢である。大学の研究は,このような「遊びの科学」によって成り立っている領域が少なくない。科学者としての経験を積まれた期間が長い先輩方ほど,「遊びの科学」,「純粋科学」の大切さに気づかれるようである。

 上に述べたパラダイムシフトの思想形成,そのよってたつところの文化,教育の重要な部分が,この「遊びの科学」によるところが大きいのかなと思うこのごろである。しかしまだ,「遊び」をするための生活が誰によって支えられているのかを考える責任感が,欠けていてはいけないのではないかという思いは捨てられない。

(3)自然科学の社会への影響

 科学が社会に与える影響は大きい。自然への理解を深めるのが自然科学である。21世紀を迎えようとしている現在の世界観は,自然科学の進展により,自然を征服して人間に都合の良いような世界をつくることから,自然と調和しながら生きていくことに変わりつつある。古くからの東洋思想がこれまでの西洋思想にとってかわって表舞台に出てきたともいえる。

 生物を研究対象に研究を続けていると,生物が生命を維持するために持っている,これまで35億年をかけて獲得してきた仕組みの複雑さ,巧妙さに驚かされ,この感は,研究を進めれば進めるほど深まっていく。バイオテクノロジーが新しい生物を生みだして,地球の生物界が破壊されるのではないかという危惧はあたらない。生命の理解が進むにつれて,生きていることへの敬虔な気持ちはますます強くなる。少なくともこれからの数十年は,生命を理解することについやされるであろう。この間,人類は,生命に対する確固たる倫理観をきずきあげるはずである。

 バイオテクノロジーという技術を使って,生物の生きるための仕組みに迫るバイオサイエンスの成果が,産業に活用されるのがバイオインダストリーである。科学技術の進歩,新しい科学技術は,常に何らかの不安を社会に与える。古くは,1970年頃にさわがれた微生物タンパク(SCP)の問題がある。食糧問題を解決するために,石油を原料としてタンパクを生産する研究が世界的に行われ,工場の建設が進められた。

当初の安全性の問題が,科学的にクリアされたにもかかわらず,ついには,感情論によって社会に受け入れられず,このプロジェクトは中止された。最近の遺伝子組換えの施設は,周辺の住民の不安を招き,その建設が反対される。

 社会の理解をえて受け入れられること(パブリックアクセプタンス)に対して,科学者は決して傲慢な姿勢は許されない。真摯に粘り強く努力していかなければならない。受け身ではなく,積極的に行動することが必要である。

 自然科学は,新しい産業の創成とともに,社会の新しい価値観の創出をもたらす。例えば,バイオサイエンスは,生命に対してより謙虚な生命観を創出し,自然との調和の大切さの理論的根拠を与えるであろう。

(4)文化と大学

 文化(culture)の定義は人さまざまである。耕す(cultivate)の語源に意味を持たせたり,生物を取り扱う実験では,培養することがcultureである

 あらゆる分野の科学が,新しい価値観の創出に影響を与え,ひいては新しい文化の創造に寄与する意味で,大学は,文化に対して,深い関与と責任を一般的に持つ。大学の使命は,文化の創造であるともいえる。

 ここでは,地域文化と大学について述べてみたい。古い歴史を持つ大学のまわりには,独特の雰囲気がただよっている。大学人によって便利であり,雑然としており,そしてまたいきいきとしている。文化は,いきいきとしたものでなければならないと思う。古い仏像によって感銘を受けるのは,それが依然として宗教心の対象であり,鑑賞者の心の琴線に触れるからであろう。したがって,新しい文化ゾーンを作るために,美術館などのハード面の建設だけを主眼とするのは,間違いであると思う。

 大学のまわりにかたちづくられる町は,大勢の学生をはじめとした大学関係者の生活の場として,まさにいきいきとしている。文化は,また,次の世代の養成のためでもある。大学人を見て育つ子供たちに,科学に対する関心とあこがれが育づであろう。

 新しく開発された土地に立てられたNAISTは,残念ながら周辺の文化ゾーンはできていない。地域住民への大学見学会,公開講座の開設,講演会での講師などを通じて,まず地域との融和をはかっている段階である。隣接する高山サイエンスプラザは,有名な科学者の子供のころの像を庭に配し,直接操作できるコンピューターなどの設備を持ち,地元の子供たちの見学は引きも切らない。

4.大学の教育

(1)大学の入口

 現在,18才人口は200万人弱,高校卒業生が約180万人で,そのうち,大学と短大を合わせた入学志願者が120万人,入学する学生が80万人程度である。21世紀の初めには,この180万人が150万人になると予想される。減る入学志願者を,どうして自分の大学に引き寄せるかを課題とした生き残り作戦が,大学改革の動機のひとつである。

 米国では,すでに,1980年代に,18才人口の急激な減少が起こっている。1980年に872万人であったものが,1992年には687万人となっている。私立大学の多い米国では,大学の経営は破産してしまうだろうという大きな危機感が広がった。しかしそうはならなかった。高等教育を受ける率が高くなってきたのである。日本でも,例えば,1960年には18才の若者のうち大学,短大進学者は10%であったのが,上のような数字に変化している。また,一度社会に出てから,もう一度大学,大学院にいこうとする成人学生の数が増えたこともあげられる。

 自然科学系離れ(理工系離れとよくいわれているが,理学部と工学部をクローズアップする表現は適切でない)も数字にあらわれている。自然科学系学部への志願者の比率が,1986年の25.6%から,1993年には19.5%に減少している。各学部の定員の変化もあり,この数字だけではきめつけられないが,自然科学への興味が以前よりも薄れていることは,自然科学系に入ってきた学生の知識の乏しさからもうかがえる。産業構造の変化,生活環境の変化(ブラックボックス化した機器,少なくなった自然),入学試験の影響,社会での待遇,将来への意欲の減少など,原因はいろいろとあげられようが,学会を中心として,また,大学自身から,自然科学の魅力をPRする若者への働きかけが行われつつある。

 紀元前から高い科学技術のレベルを誇っていた中国が,近代科学のリーダーとなり得なかった原因が,科挙の制度による国家官僚志向,文官優位の結果であるという説は,一考に値する。

 大学の入学試験が社会に与えている影響が,余りにも大きいことは,誰が見ても明らかである。どのような形式をとってみても,入学試験は,本来,競争試験である。入学試験の方法については,さまざまな提案があるが,現在の大学をそのままにするかぎり,手間ひまをかけるか,入学を易しくして卒業を難しくするしかないのではないか。いずれも,大学の負担は数倍に増えるが。なお,個性化を名目にして,入学試験のレベルを落とす方法は,大学の自殺行為であろう。

 NAISTの入学試験は,すべて口頭試問である。一人の志願者に対して30分間,5人の教員があたる。勉学への意欲,専門分野についての理解度と考え方,知識,語学(英語)カを総合的に採点する。これまでに経験のないこの方法に,実施前はとまどいと危惧を感じていたが,結果を見て見ると,5人の教員のバラツキは少なく,バラツキがでると担当者が十分に検討することによって,正規分布をえがく成績分布が得られている。いい方法だと自己評価しているが,各研究科125人の定員に対して4〜5倍の志願者がいるので,大学の負担は大変重い。

 この方式は,社会人入学に門戸を開く意味も持っている。NAISTでは,企業に在籍のままの入学も積極的にすすめており,新卒者以外の受験者もずいぶんと多い。筆記によって知識に優劣をつける試験はなじまない。また,大学3年生の志願者,いわゆる飛び級も徐々に増えている。

(2)カリキュラム

 大学における教育は,全人的であるが,ここでは,講義,実験,課題研究などのカリキュラムについて限って述べる。

 新制大学の発足から46年たち,この間,学術の高度化・多様化,学生の大衆化など,教育にかかわる大きな変化がおこっている。多分に,旧制大学の「象牙の塔」的考え方を引きずっていた大学教育の,全面的な改革が行われている。直接のきっかけは,1991年の大学設置基準の大綱化である。この改定は,教育に関しては,大学の自由度を高めたことである。カリキュラムの弾力化,柔軟化を各大学に求めたのである。

 一般教育と呼ばれる教養教育についての,教養部の廃止,4年一貫カリキュラムの編成は,なかでも最も大きな改革である。はばひろい教養を身につけさせようと,1,2年生を学部の枠を取り去って教育する教養部は,つぎつぎと姿を消していった。

 自然科学,社会科学,人文科学の基礎を,将来の専門分野にかかわらず教育するこの制度は,意欲のある学生にとっては,理想のカリキュラムであったと思う。しかし,2年間の後半の時間をもてあます学生が多くなり,学部側からは,もっと早く専門教育を受けさせて,十分に教育したいという希望が強く,教養部では,預かり学生の教育には熱が入らないという年来の不満があった。

 4年一貫カリキュラムは,大学の4年間の教育を,前半と後半に分けることをやめている。自然科学系の4年生が,社学科学の講義を受けることができるのである。問題意識を持ってから異なる分野の講義を受ける。鉄が熱いうちに進むべき専門の勉強に取りかかるわけである。どんな制度も,運用次第,相手次第であり,新制度が,狭い視野を持った学生を育てることなく,成功することを願っている。

 授業計画(シラバス)の作成も進んでいる。シラバスは,授業の流れに対する学生の理解を深め,予習を可能にする。全般的に見て,教育に熱心であったとは言えない教員,大学をレジャーランドと勘違いしているかのような学生に,刺激を与え,きびしい教育が大学で行われるきっかけになればと思う。

 大学院でのカリキュラムについては,まだほとんど取り上げられていない。大学院教育の実情は,研究テーマについての,研究室での研究が中心である。しかも,多くの大学院生は,同じ大学から進学し,4年生で卒業研究を行ったのと同じ研究室で研究を行う。激しい変化を見せる産業構造と学問の進歩に対応する人材を育てるシステムとして,これでいいといえるかどうか。

 NAISTでは,これまでの日本の大学院教育のあり方を見直し,教育を重視したカリキュラムを組んでいる。講義の比重を高めたことである。情報科学研究科では,4セメスターに区分し,多様な講義を受けながら研究を行う。バイオサイエンス研究科では,入学後,4か月,終日,講義を受け,その後,研究テーマに取り組む。それぞれ,幅広い知識と考え方を身につけた学生を養成することを目的としている。

(3)大学の出口

 日本の大学は,卒業に対して甘いのが,定評である。入学すれば卒業できる。だから,入学試験が終われば勉強しないといわれる。これまでの経験からいえば,自然科学系,特に,実験系の学生の,卒業研究に対する熱心さは,昔も今もすばらしいものである。一部の例外はあるが。

 大学,大学院を卒業した学生の大部分は,企業などに就職する。現在の不況による深刻な就職難はともかくとして,これまでからも問題になっているのは,女子学生とドクターコースの学生の就職である。これらの学生の企業人としての欠点は,いろいろと指摘されているが,プラス面を評価してほしいと思う。これからの産業に要求されるであろうパラタイムシフトには,女性の感性が必要であろうし,先端科学技術の開発にはより高い基礎科学の素養が必要となるからである。

5.大学の教育・研究体制

(1)教育と研究

 熊本大学にある第五高等学校記念館に,明治30年開校記念式での夏目金之助(漱石)教授の祝辞が保存されている。その中に,「教育は建国の基礎にして師弟の和熟は育英の大本たり」というくだりがある。

 日本の大学の体制は,教育を中心としており,明治以来の学部,学科に組織された教官は,その枠組みの中で教育を行う。最高の教育は最高の研究に裏打ちされたものでなければならないとして,一流の研究者としての評価に耐えうる研究が要求される。

 教育と研究を一体とする理想は,ひとにぎりの向学心に燃えたエリートのみが学生であった時代の大学では,うまく機能していたであろう。学生数が増え,高等教育の大衆化がはじまると,その2つを十分に行いながら,科学技術の進展をはかることは,きわめて難しい。さらに,大学の管理,運営および学会,研究費や学生の就職をにらんだ学外での活動などが加わり,教員(教授)の負担は年齢とともに過重の度を加える。犠牲になるのはたいてい教育(講義)で,休講が増える。

 良き研究者が良き教育者であると考えられてきたため,これまで大学教授法についての研究はなく,研究業績によって採用された教官が,教育学を学ぶことなく教育を行っている。昨年,京都大学に,高等教育教授システム開発センターが,国立大学として初めて設置された。実践的な成果があげられ,全国的普及のさきがけとなることが期待される。

 大衆化したなかでのエリート教育を行いながら,一流の研究を行うのには無理がある。教育と研究を部分的に分離してはと考える。ある程度の年代に達した時点で評価し,教育向きと研究向きに分ける,あるいは,一定の年齢に達すると,本人の自覚にかかわらず先端的研究能力は落ちその代わりに大局的な見方を獲得するので,教育に専念する,といったシステムにしてはどうだろうか。

 大学改革を進める議論のなかで,教育組織の改組も取り上げられている。教養部廃止を受けて,専門教育に幅広さ,学際性を取り入れたり,学生の選択度を高める方法など,各大学の多様性が出てきている。

(2)大学院時代

 研究の高度化および高度な人材育成のニーズによる大学院の重要性は,増大している。現在,大学院在学者数は10万人を越え,学部学生数の5%,人口1,000人あたり約0.9人である。米国では,これらの数字は,それぞれ,84万人,12%,3.4人である。このような情勢のもと,大学院重点化が構想され,いくつかの大学で実施にいたっている。

 日本の大学院は,戦後,学部の上に設置されたものであり,専任の教員,独自の設備を持つことなく,今日に至っている。この間,独立研究科など,一部では,学部組織とは並列的な大学院が設置されている。研究を主たる機能とした付置研究所は,教育面では,大学院に組み込まれる。

 大学院重点化は,学部と大学院の立場を逆転させ,教官は大学院に属し,学部教育は大学院から出向するかたちをとる。これにともない,学部,大学院の組織の改組を行い,学問の進展の結果に対応したかたちにする。

 NAISTは,この大学院重点化構想にさきだち,学部を持たない独立大学院として設置された大学である。大学の改組によるものではなく,白紙の上に構想されたもので,先端科学技術と呼ばれる学部の枠をこえた分野に,さまざまな大学,学部から教員が集められ構成された。新しい学問体系の構築,学部教育をともなわない教育機能など,外国でも例の少ない新構想大学である。

 学生もさまざまな大学,学部から集まり,各研究科の学生の出身大学は,50前後になる。いろいろな大学で学んだ学生が,その大学を離れ,大学院での勉学の意欲を持って,最高の条件が設定された大学院に入学するシステムは,高等教育の新しい方向を示すものである。

6.大学と行政

(1)管理・運営

 大学の最高意思決定機関は,学長が主宰する評議会である。評議員は各学部の教授会によって選ばれる。教育・研究の場である学部の管理・運営は教授会が行い,おおむね,全会一致に近いかたちで進められる。

 大学の管理・運営,特に,意思決定の緩慢さは,教授会自治,さらには,講座自治の論理が,色濃く残っていることに大きな原因がある。講座自治は,学問の自由の原則から生まれ,集合体としての大学の自治を,大学のあり方の本質として社会に標榜する。

 大学が,これからの科学技術,産業の発展に積極的に寄与すべきこと,新しいパラダイム,文化の創造には,自然科学だけではなくすべての科学が取り組むことが必要であることをこれまで述べてきた。また,科学と大学の研究・教育の多様性についてもふれた。

 大学の設置基準の大綱化が行われて以来,大学の多様化の方向が進んでいる。現在の大学に対する社会の評価は,決して甘くない。国立大学の民営化を提案する声もある。このような時代に,大学の管理・運営にたずさわる教員は,学長(一部では副学長制もある)を除いては,すべて,教育・研究とのかけもちである。教育と研究の両立さえ問題がある上に,さらに,運営・管理の任にあたる一部の教員の負担ははなはだ大きく,これほど機能分化のすすんでいない組織は,他にはないのではないかと思う。

 大学運営の組織としては,事務局があり,執行部の補佐機能および教員組織との車の両輪的機能を持っている。最近,大学運営組織の基本構造として,教学組織と事務組織を並べ,前者を生産部門,後者を営業部門と位置づける提言を目にする機会があった。また,事務職員の役割とその方向を明示した論文にもふれた。いずれも,行政サイドからのものである。大学審議会の答申に述べられている,学長のリーダーシップの問題とともに,各大学の教員組織も,管理・運営に関するビジョンを検討すべきであろう。

(2)評価とアカウンタビリティ

 自己点検・評価と銘打った冊子を,最近,各大学が発行している。大学が,国民から付託された任務を果たしているかどうか,自らチェックするもので,主旨はまことに結構なものである。なかには,教育,研究活動,組織運営について,きわめて率直かつ真摯な報告書もあるが,自発的な意志が見られないものも少なくない。

 恩師から,かって,大学人は高等遊民だという言葉を開いたことがある。恩師は,企業から迎えられた教授であった。大学人と大学組織の非社会性と非合理性を批判する言葉であった。

 大学の機能のうち,教育は,大学人としての義務として認識されることは容易である。ただし,上に述べたような事情で,教育を犠牲にしたり,軽視する傾向はあるが。また,学生による講義評価のようなかたちでの評価も,難しくない。機嫌をとりむすぶ講義に高い評価を与える学生ならば,講義をしていてもおもしろくないはずである。本来のアカウンタビリティを問うならば,入学時の成績,卒業時の成績,さらには,社会での活躍度についての相関性を追求し,個々の大学にとどまらず,高等教育のあり方を評価するべきと思う。そのための専門機関が必要であるが。

 研究についての一律の評価は,不可能である。もし,報文や学会報告の数で評価でもしようものなら,研究者は育たないであろう。能力を判定し,怠慢を判断する機能は,別に求めなければならない。

 大学,特に,全面的に国費に依存している国立大学のアカウンタビリティは,きわめて重要であることはいうまでもないことである。大学人がどれだけそれを自覚しているかについても,批判を受けなければならないと思う。押しつけられて,分厚い自己点検・評価報告書を作成する労力で,大学自身が自己管理体制を確立するための方策を練る時が来ているのではないか。

 国立大学民営化論が,明治以来の基礎科学への日本人のスタンスを助長し,諸外国での大学のアカウンタビリティ論議に乗ったかたちで進められないために,制度と意識の変革をより一層進めることが必要であろう。

7.おわりに

 これまでになく,日本の将来についての曲がり角論議がさかんである。本稿では,日本の産業と科学技術のあり方について,価値観としての「環境」の概念の導入の必要性を中心として論じ,その基盤としての大学の役割および改革の進む大学の現状について,私見を述べた。「会計検査研究」とかなり離れた内容になってしまったことをおわびしたい。

 先日,本学の会計検査を受け,助手に採用されて以来30回目の経験をして,検査をする方も,準備して検査を受ける方も,その大変な業務にあらためて敬意をはらっているところである。

 会計検査は,会計業務の妥当性とともに,予算使用の効率についても行われる方向であると聞いている。総務庁による行政監察,各省庁内部における評価とともに,執行における効率を,制度的に追求することは重要であると思う。制度をよく理解していない,素人の"つぶやき"として取っていただきたいが,会計検査院から,検査や摘発を目的としたものではなく,現行の会計関連法令の執行,運用の妥当性について,教育・研究現場で検討することを目的として,一定期間大学に滞在し,制度に対する会計的提言を研究されてはどうだろうか。単年度会計が効率に与える影響,縦割り行政が科学技術進展に与えるデメリットなどを調査,研究していただくことによって,大学のアカウンタビリティを一体となって考える第一歩となるのではないかと思う。

1)奈良先端科学技術大学院大学(Nara Institute of Science and Technology)は・北陸先端科学技術大学院大学とともに・学部を持たない独立大学院として,1993年に新たに設置された国立大学である。38万人都市としての建設が進んでいる関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)の高山地区に位置し,情報科学研究科及びバイオサイエンス研究科からなっている。情報科学研究科修士課程第1期生を1995年3月に送り出している。

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