第10号 巻頭言

会計検査のフロンティア
松下 圭一

松下 圭一(法政大学法学部教授)

 1929年生まれ。東京大学法学部卒業。法学博士。元日本政治学会理事長。

 主な著書は,「市民政治理論の形成」岩波書店1959年,「シビル・ミニマムの思想」東大出版会1972年(毎日出版文化賞受賞),「市民参加」(編著)東洋経済新報社1973年(吉野作造賞受賞),「市民自治の憲法理論」岩波書店1975年,「社会教育の終焉」筑摩書房1980年,「都市型社会の自治」日本評論社1987年,「昭和後期の争点と政治」木鐸社1988年,「政策型思考と政治」東大出版会1991年(NIRA東畑精一賞受賞)など。

Ⅰ 会計検査の公準とその変化

 いわゆる近代化の過程は,それぞれの国で特性をもつものの,ひろく次のような三段階をたどるとみてよい。

近代化Ⅰ型段階 国家統一 一元・統一性(主権理論)

近代化Ⅱ型段階 経済成長 二元・対立性(階級理論)

近代化Ⅲ型段階 市民福祉 多元・重層性(市民理論)

 1960年代にはじまり,1980年代には日本はⅢ型段階にはいっているにもかかわらず,国レベルの政策はいまだに中発国的なⅡ型の考え方がつづき,先発国なみのⅢ型政策の成熟をみないため,国際摩擦もきびしくなっている。

 この三段階は日本の会計検査の歴史にもあてはまるようである。今日も会計検査院の挨拶文には,明治憲法時代の「天皇ニ直隷シ国務大臣ニ対シ特立」(院法一条)が歴史として強調されている。まさに近代化Ⅰ型段階の考え方であった。戦後はもちろん法改正があり,「内閣に対し独立」(一条)を保障される。近代化Ⅱ型の保守・革新の二元・対立というかたちをとった戦後は,保守長期政権のもとで,会計検査院の活動は「独立」なるがゆえに安定性をもちえたようにみえる。

 だが,日本における1980年代からの都市型社会の成熟は,Ⅲ型段階における会計検査のあり方の模索を,不可避としてきた。というのは,会計検査は,これまでのⅠ,Ⅱ型段階で自明にみえた「合規性」という公準のみでは,まにあわなくなってくるからである。この公準が自明にみえたのは,Ⅰ,Ⅱ型段階では,絶対・無謬の国家ないし国法という観念にささえられていたためであった。Ⅲ型段階では,この国家・国法観念の絶対・無謬性の想定が崩壊する。そこには国レベルの政府,それも政党政治があるのみとなる。つまり国レベルの政府の脱「神秘」化がすすむのである。

 この合規性は,次の二点から自明でなくなる。都市型社会の成熟をみるため,第一は市民の文化水準,団体・企業の政策水準もたかくなり,政策の形成・執行は国の政府が独占できず,市民,団体・企業との競争となってくる。第二には,政府は国レベルだけではなくなり,自治体,国,国際機構の三レベルに三分化する。つまり,合規性は,第一では多元化による挑戦をうけ,第二では各政府レベルに重層化する。

 ここから今日,かつては絶対・無謬とみなされた国法固有の構造欠陥も露呈してくる。(1)全国画一,(2)省庁縦割,とくに(3)時代錯誤という構造欠陥である。いわゆる「法の欠缺」だけではないのである。ここから国法の運用の弾力化はもちろん,たえざる国法ついで施策の改定が日程にのぼることになる。

 たしかに,個別施策は固有の政策論理と多様な政策論点をもつ。合規性の公準のみでは,会計検査は対応できなくなる。このため,会計検査のあらたな公準として,「施策(業績)評価」についての,いわゆる3E,つまり経済性,効率性,効果性が国際的にも問題となってきた。

 だが,この経済性は公準たりえない。というのは,都市型社会では,市民の文化水準,団体・企業の政策水準がたかくなるため,政府の個別施策の水準が問われるようになる。政府施設のブロック塀や金網柵によって,国や自治体が地域景観を汚していると批判されるようになる。なぜ,生垣ないし公園用フェンスをつかわないのかという批判である。政策の「安かろう悪かろう」の時代は終わって,入札でも質の問題の判定方法の模索がはじまっているのである。これが「行政の文化化」という論点である。施策の経済性よりも,施策の文化水準が重要となる。それゆえ,経済性をはずさざるをえなくなり,経済性は効率性に解消される。それゆえ,会計検査の公準は,①合規性プラス②効率性,③効果性ということになる。

 最近ではさらに,この②③による「施策評価」だけでなく,あらたに「政策評価」も日程にのぼることになった。個々の施策が,いかに①合規的で,②効率的,③効果的にみえても,ムダな施策はムダだからである。市民の文化水準,団体・企業の政策水準のたかまった都市型社会の今日,日本の会計検査もこの問題領域にふみこまざるえないことになった。

 この「政策評価」については,1992年『政策評価に関する調査研究・業績検査手法に関する調査研究』というかたちで会計検査院の検討がはじまっている。この検討の開始をたかく評価したい。

 これまで,日本の会計検査院は,いまだ大胆ではないが,『会計検査院法』三四条だけでなく,とくに三六条の法令,制度又は行政についての改善意見の表示又は処置要求にもとづいて,施策評価をおこなってきた。1970年代から「従来は検査報告掲記事項の対象外とされてきた政治問題,政策問題,社会問題が絡む事項」を「特記事項」として検査報告にもりこんだのも,その一環である(会計検査院『会計検査のあらまし』[別冊]1990年254 頁)。また1981年以降は,毎年,「検査計画に関する基本方針」,86年以降では「検査計画の策定に関するガイド・ライン」を策定するとともに, 1990年以降,ODAあるいは湾岸平和基金拠出金など「特定事項」もくわえた。

 このような「施策評価」の経験のうえに,会計検査の国際動向もあって,あらたに「政策評価」への模索となったとみたい。だが,この「政策評価」には,きびしい論点がひそんでいる。

Ⅱ 政策評価は可能か

 ここで,私なりに用語法を整理しておけば,次のようになる。会計検査の基本公準としての合規性は,現行施策の目的・手段をそのままふまえて,実施の現実の合規性を問うことになる。効率性・効果性では,目的をそのままにして手段の選択における効率,効果が問われる。効率性,効果性は日本で業績評価といわれる施策評価の公準である。だが政策評価では目的自体をふくめて施策全体を評価する。

 さきほど,①合規性,②効率性,③効果性という公準にかなっていても,ムダな施策はムダとのべたが,これが政策評価である。このムダな施策とは,政策の実態からみて,

(1)時代変化に対応できない時代錯誤(過剰規制?)

(2)政党による党派的な集金・集票手段(税の減免,補助金?)

(3)行政による立案のときの予測失敗(リゾート法?)

などによって,政策目的したがって政策自体が破綻している施策である。

 このムダな施策,さらに「政策によるムダ」については,毎日のテレビ,新聞などにあふれており,これが,政治・行政への批判となり,国会,内閣だけでなく,会計検査・行政監察への不信をうみだしている。率直にこの事態をうけとめるべきであろう。近代化Ⅲ型段階では,市民の文化水準,団体・企業の政策水準がたかまって,絶対・無謬という国家・国法観念がくずれてくるのだから当然であろう。

 けれども,各省庁は,この政策評価をめぐって,個別施策の「目的」を問題にすることを「介入」として嫌う。この個別「施策」の《政策》としての適否を評価する「政策評価」は,それゆえ,会計学の問題領域ではなく,政治学ついで行政学・財政学の問題領域だということになる。政策評価となれば,会計検査は会計技術の領域にとどまりえないのである。そのうえ,ここから,図1に整理したように<誰>がムダと判定するのかに,問題の焦点はうつっていく。

図1 政策評価のレベルと主体

 アメリカの会計検査院(GAO)は今日では国会の附属機関として国会に直結するため,報告自体は即事的な客観検査であっても,国会の法案提出・審議ついて予算・決算との関連で,個別施策の政策としての適否をめぐる国会の政策評価とむすびつきやすい。政策評価の基本主体は市民であるが,市民の代表としての国会に会計検査院は直接むすびついているからである。

 事実,アメリカでは,国会またはその委員会にだされる会計検査報告は年1000件におよび,「その90%は議会の要請に基づく調査報告書である」(『けんさいん』1992年第6号62頁)。「独立」機構としての日本の会計検査院とはあきらかにちがった位置にある。アメリカと日本の会計検査のシクミの対比についての複雑な問題点については,木谷晋市「GAOの監査規準の展開とその要因」(『会計検査研究』1994年第9号)が,これまでの日本における論議を整理して示唆的である。

 会計検査院が国会直属であれば,検査が即事的な客観検査であっても,政治評価つまり市民評価,議会評価と直結し,さらに政府評価につなげていける。だが日本の会計検査院は,国会,政府(内閣)から「独立」しているため,この政策評価ではかえって非力となるという逆説をもつ。

 なぜなら,個別施策が,市民からみて(1)時代錯誤,(2)集金・集票手段,(3)予測破綻などによるムダであっても,所管の縦割省庁は現行施策の絶対・無謬を会計検査院に主張するからである。そこでは,市民評価と行政評価とが対立するのがつねなのである。

 このため,会計検査院の「独立」はかえって孤立となって政策評価へのつながりを困難にしがちにしているのではないか。この点「独立」ではあるが,会計検査院の検査計画にたいして国会決算管理委員会議長が要望できるイギリス方式も参考になる(栗原豊久「イギリス会計検査院の会計検査報告に関する一考察」,『会計検査研究』1994年第9号)。

Ⅲ 政策評価と市民価値

 ここで,あらためて,施策評価,政策評価をめぐる論点を整理してみよう。図2をみていただきたい。

図2 会計公準と政策評価

 日本の会計検査は「独立」の「事後」検査なので,合規性から順次上段にうつって政策評価にいたるという,前記『報告書』にみられるA型発想では,第Ⅱ章でみた省庁の抵抗のため,意欲はあっても政策評価にたどりつけないというジレンマにおちいることになる。

 とすれば,逆のB型発想が日本では必要なのではないか。市民レベルからの政策評価にたえず留意し,さらに市民良識・市民価値をふまえて,合規性ついで効率性,効果性という通常の公準によって,即事的に会計検査をおしすすめるという考え方である。つまり,政策評価の基本は,市民主権の原理から,かならず図1にみた「市民評価」である。このため,市民良識・市民価値からの出発が会計検査にも要請されるのは当然である。

 もちろん,会計検査が国会,内閣の政策評価を代行するのではない。あくまでも,会計検査自体は,市民良識・市民価値をふまえた,合規性について効率性・効果性にもとづく,即事的な客観検査でなければならない。ただ,会計検査は,市民良識・市民価値を起点とすることの自覚が要請されるのである。「内閣からの独立」を誇りとするだけの段階は終わっているのである。

 ここで市民良識による市民価値とは,市民主権による市民自由(人権・平和)ならびに市民福祉(シビル・ミニマム),つまり自由権と社会権の保障を意味する。ひろく基本法(日本でいう憲法)原理といってよいだろう。政策評価をどの政府レベルにおいて<誰>がおこなうにしろ,この市民価値は今日ではひろく『世界人権規約A・B』(Aが社会権,Bが自由権)にみられるように,地球規模の普遍原理として承認されている。この市民価値と,合規性ついで効率性,効果性という会計検査の公準との緊張を,現実の個別施策に即して,たえず問うべきなのである。

 たしかに,この合規性については,リーガル・マインドといわれる「制度型思考」,効率性・効果性にはいわば「政策型思考」の訓練・塾度を必要とする。会計検査には,「制度型思考」「政策型思考」の習熟が不可欠なのである。だが,その前提としては,市民価値にもとづく市民良識が基本となる。

 この市民評価の公準は,当然,会計検査の公準とかさなるが,つぎのようである(拙著『政策型思考と政治』1991年東大出版会174頁)。

(1)公平性(社会的) 最大正義

(2)効率性(経済的) 最小費用

(3)効果性(政治的) 最適効果

会計検査の公準と市民評価の公準のちがいは,会計検査の「合規性」からの出発と,市民評価つまり市民からみた最大正義としての「公平性」からの出発という,それぞれの起点にある。そのため,会計検査では財務型の効率性・効果性が中心となるが,市民評価では市民からみた公共型の効率性・効果性が問われる。この論点は,「収益性」を起点とする企業では経営型の効率性・効果性となることを想起すれば,ただちに理解しうるだろう。

 たとえば,最近では生涯学習とよびかたを変えつつあるが,社会教育ないし公民館の行政を考えてみよう。今日,市民文化活動は多様にくりひろげられているが,なぜ特定団体だけが「社会教育関係団体」として補助金をうけるのか,さらに10人前後の陶芸教室やケーキづくりの教室のためになぜ公金がつかわれるのか。そこに合規性から出発する財務型の効率性,効果性があるとされるかもしれないが,市民評価では公平性がまったく欠落し,公共型の効率性,効果性はそこにはみられない。そのうえ,職員管理・職員運営の公民館を市民管理・市民運営のコミュニティ・センター方式にきりかえうるではないか(拙著『社会教育の終焉』1986年筑摩書房)。とすれば,生涯学習と名称を変えても公民館ないし社会教育行政という政策自体が問題となる。このような政策評価問題が,各省庁による農業補助金のような施策補助から外郭団体補助金のような団体補助まで山積しているのを,市民は知っているのである。

 会計検査の合規性から出発するときと,市民評価の公平性から出発するときでは,効率性,効果性の意味が変わってくる。このギャップから,たえず世論というかたちで,市民評価としての市民批判が噴出してくる。

 いわば,合規性は行政からみる視角となり,公平性は市民の視角となる。この視角のちがいによって,図1の市民評価と行政評価がたえず対立する。この市民と行政との緊張の解決として,国会,内閣による政治が問われることになる。

 こうして,近代化Ⅲ型段階となれば,おそかれはやかれ直面するはずだったのだが,会計検査はようやくこの政策評価問題にぶつかることになったのである。

Ⅳ 行政の劣化と会計検査

 以上にくわえて,今日の会計検査を考えるとき,行政の位置が変わってきたことを理解しておく必要がある。行政の位置変化に対応して会計検査の課題もかわる。

 都市型社会の成熟した今日,市民あるいは団体・企業にたいする行政の先導性はうしなわれてくる。かつて市民の文化水準,団体・企業の政策水準の低かった近代化Ⅰ,Ⅱ型段階では,「国家」の名において行政ないし省庁の先導性を想定することができた。市民の文化水準,団体・企業の政策水準が上昇する今日の近代化Ⅲ型段階では,《行政の劣化》こそが問題となってくる。1980年代になって噴出してきた「行政の守備範囲」,「民間活力」,「規制緩和」あるいは「政財官癒着」といったような論点は,このⅢ型段階における《行政の劣化》という文脈で提起されているのである。その結果,絶対・無謬を想定されていた「国家」観念も崩壊する。

 そのうえ,時代の変化につれて,既成の施策は飽和ないし老化するとともに,新しい政策課題が続出するため,施策のスクラップ・アンド・ビルド,さらに行政手法の新開発をふくめた,《行政の革新》がたえずもとめられてくる。

 それだけではない。政策課題がシビル・ミニマムの量充足から質整備へとうつる今日,政策の質つまり文化水準,いわばデザインをはじめとする行政の文化化が問われる。行政は「分権化」「国際化」とともに「文化化」も問われることになったのである。

 それゆえ,会計検査は行政監察とともに,施策のスクラップ・アンド・ビルド,さらには行政の分権化・国際化・文化化をめぐって,社会変化に即応する弾力性も求められている。そのためには,合規性にもとづく制度型思考,効率性・効果性をめぐる政策型思考の習熟だけでなく,社会変化への見透しも必要となる。

 社会の変化を見透し,市民価値を基本にするとき,はじめて,会計検査の本来の課題である合規性,効率性・効果性が意味をもってくるというべきだろう。こうして,会計検査は,市民,国会,政府ついで行政機構をつなぐ,情報公開・政策制御の循環のなかに位置づけられることになる。

 日本における「独立」の会計検査は,政治つまり市民,国会,政府への情報装置となる必要がある。にもかかわらず,これまであまりにもその活動は「独立」の名で「自閉」的だったといえるのではないか。会計検査院の報告文書は今日なお親しみにくく,情報公開活動のたちおくれもいちじるしい。ようやく「情報開示官庁」にふみだしたといわれはじめたばかりなのである(『読売新聞』1992年12月13日)。

 このため,今日では会計検査院の研修カリキュラムさらにテキストの抜本改革も不可欠である。「…一般の国民の方々の声が非常に重要になってくるわけです。総務庁行政監察局がいくら実態を調査し理論を組み立てて相手省庁を説得しても,最終的には,多数の方々の声がなければ実効ある改善等を勧告することはできないと思います。」これは行政監察を担当する総務庁の広報誌(1994年2月号)における「監察マン大いに語る」での発言である。会計検査についても,その「独立性」ついで「専門性」とはなにかをあらためて考えなおしたい。

 もちろん,「事前」の会計検査ともいうべき大蔵省主計局による予算編成が,自民党長期政権のもとで,前述したような時代錯誤,集金・集票手段,予測破綻などによる政策のムダがふくらんだだけでなく,また個別施策の飽和・老化もすすんで,タテ割政財官複合によるタテ割既得権の均衡になってしまっていることは,今日ではひろく知られている。このため,「事後」の会計検査,行政監察に過重負担がかかっていることも強調しておく必要があろう。予算編成については,大胆に「政策評価」による政策再編をおしすすめるため,政府直属の予算局の設置が不可欠である。

 もちろん,会計検査については,このような先端状況への対応だけでなく,大蔵省所管の『会計法』また『予決令』が古ぼけて批判にたえないシクミにとどまるという基本前提,あるいは施策評価以前の合規性検査の段階で構造汚職・政策汚職の文脈にまでふみこみうるという基本論点も,今日のこされたままとなっている。さらに,各省庁での内部検査の強化と連携,外部検査への委託,あるいは施策評価さらに政策評価とむすびつく事業別予算や関連組織との連結決算の作製など,検討すべき論点もひろがりをもつ。

 行政は絶対・無謬の完結したシステムではない。つねに社会とともに変わる「未完」のシステムといわざるをえないだろう。会計検査の対象としての行政機構は「未完」のシステムであり,会計検査院もまた「未完」のシステムである。会計検査の手法,公準,システムには,この意味でフロンティアにみちみちているといってよいのである。

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