第8号

業績評価と政治的中立性
−新しい政治の条件下の会計検査−
新藤 宗幸

新藤 宗幸
(立教大学教授)

 1946年生まれ。中央大学経済学部卒,中央大学大学院法学研究科修士課程修了。東京市政調査会研究員,専修大学法学部助教授を経て,89年より現職。日本行政学会,日本政治学会,自治体学会等に所属。

 主な著書は,「行政指導」,「財政破綻と税制改革」,「行政改革と現代政治」,「90年代の選択」(共編著),「アメリカ財政のパラダイム」,「現代政治のオールタナティヴ」など。

 1 政党政治の基本構造の変化

 会計検査には,ここ10年余にわたって,新しい課題と期待が生じている。いうまでもなくそれは,伝統的な合規性の検査から脱して,事業の経済性,さらには有効性へと検査の焦点を移行させるべきであり,またそのような課題に対応できる検査方法を開発するべきであるとの要請である。会計検査院が1987年4月より4カ年間にわたって設置した「会計検査問題研究会」も,この期待と課題に応えるためのものであった。

 事業の経済性さらに有効性の検査(この双方を含めて「業績評価」と会計検査院はよんでおり,本稿でもとくに断わらないかぎりこの概念を用いる)は,公的機関における資源の調達・消費および管理状況に対する評価であるとともに,その産出成果に対する評価である。

 納税者の観点からするならば,これこそが明示されるべきものであるのはいうまでもない。とはいえ,いったいどこまで,行政機関による事業の目的設定の価値妥当性に踏み込むかが,絶えず問題とならざるをえない。社会経済情勢の変化を視点として,明らかに陳腐化した目的を掲げた事業が行われているとするならば,目的設定そのものの再検討を求めることができよう。だが,現実には,そのように「断定」できる事業はかぎられていよう。しかも,会計検査院の組織規範として「政治的中立性」が求められることもあって,会計検査には事後評価であっても中立性と客観性が要請されている。この結果,事業の政策的意義といった目的自体の妥当性判断には直接踏み込まずに(それを一応所与の条件として),目的・手段の適合性にかかわる経済性の評価,目的の達成状況にかかわる有効性の評価が,業績評価の対象であり目的であるとされてきた。

 このように業績評価の対象と目的を限定しても,なお,評価手法・技術の開発には多くの難題が横たわっている。にもかかわらず時代は,この業績評価の基礎前提に新しい問題を投げかけてはいないだろうか。会計検査院の組織規範である「政治的中立性」は,戦前期憲法体制下においては,超然たる権力を頂く天皇制から引き出される規範にほかならなかった。戦後民主主義体制においては,政党政治からの「中立」を規範としてきたといってよい。とはいえ,戦後政治の揺籃期を除くならば,この政党政治は一党優位体制のもとにあった。しかも,会計検査の重点が,公金の収入支出の規則適合性におかれていたかぎりにおいて,実は「政治的中立性」は,その政治性を問われることもなかったといえよう。

 けれども,戦後日本政治を支えてきた一党優位政党制は崩壊し,明らかに限定的多党制へと移行しようとしている。ここにいう一党優位政党制ならびに限定的多党制は,ともにG. サルトーリ『現代政党学』にいう概念である。前者について多言を要さないだろう。後者は,「穏健な多党制」ともいい,比較的イデオロギー距離の短い五つほどの政党が存在し,二極化した連合(連立)政権指向型の政党配置を取り,求心的競合状態が生じているような政党制を意味している。したがってそれは,フランスのような相互に排他的な二つの野党勢力が存在し,絶えず遠心的ドライブが政党間に働くような「分極的多党制」とは異なっている。フランスの会計検査院が司法機関であることは,ある意味でこの「分極的多党制」のネガティブな影響を回避する政治的知恵である。

 会計検査院は,内閣および国会から「独立」した地位におかれているとはいっても,司法機関ではない。検査官の人事にみるように内閣・国会から「相対的独立」を保証されているのにすぎない。だが,政策の意義にまでは踏み込まないとする業績評価の「自己限定」は,政党政治の基本構造に変化が生じている時代に,どこまで通じるであろうか。問題を予算循環の全体構造と関連させて,会計検査の独自性を打ち出す必要が生じているようにもみえる。業績評価に力点を移そうとする会計検査あるいは会計検査院は,検査技術の開発といった課題にもまして,極めて微妙な問題に当面しているといえそうである。

 本稿では,戦後日本の政党政治が基本的に崩れた時代の会計検査なかんずく業績評価のあり方について考えてみたい。

 2 業績評価と事業目的への接近

 業績評価にあたって,事業の目的を「所与」として設定するとしても,実は,目的は単純な構造を取っているのではない。そこには,目的の重層構造が存在しているのであり,どのレベルの目的を「所与」とするかの問題は,依然として残らざるをえない。例えば会計検査院は,昭和60年度の決算検査報告において,へき地手当てにかかる義務教育国庫負担金について,へき地要件の見直しを措置要求している。この場合,へき地手当ての要件は,義務教育国庫負担およびへき地における教育の条件整備とどのような関係にあるだろうか。明らかにへき地手当ては,これら上位目標にとって手段である。へき地手当てそのものに疑問が提示されていないかぎりで,この手段も是認されている。検査の焦点は,へき地認定が一連の上位目標の実現にとって,妥当であるか否かに限定されている。このように考えるならば,事業の目的はまさに「所与」のものということができよう。

 しかし,さらに踏み込んで,へき地手当てなるものが必要であるのか否かにまで業績評価の手を入れたならば,事業目的を「所与」とすることから逸脱したことになるのだろうか。仮に,へき地手当ての廃止を指摘したとしても,義務教育の条件整備という上位目標を否定したとはいえない。社会経済条件の変化や行政による条件整備などによって,へき地手当てを継続して支出する必要性が失われているとみることも,十分に可能性のあることである。そのような指摘は,政治的には多様な議論を生み出すであろうが,もともと公金の適正な支出の観点に立って,政治の不合理性にメスを入れることが決算の意義であるとすれば,会計検査には当然の指向であるといえよう。さらにいえば,義務教育への国庫負担は,中央政府の当然の責任であっても,その支出方式が個別行政費目ごとである必要は必ずしもない。代替的方法として,社会経済変数を基本においた一括補助(負担)金方式の有効性を,定量的データを添えて示すこともできよう。実際,個別行政費目ごとの政府間財政移転には,「不必要」な経費が伴っており,公的資源の効率的利用に照らすならば,そのような問題状況に対する指摘があったとしても,政策目的を会計検査院が「否定」したと,単純に論じることはできないだろう。

 これは,高度の集権的行政構造のもとに近代化を押し進め,しかも社会経済条件の変化とともに中央政府と自治体が相互依存関係を深めている現代においては,14兆円を数える国庫支出金(補助金)の多くに妥当する問題であるだろう。例えば,施設整備に関する補助金の多くは,あらかじめ定めた期間あるいは償却期間中は,当初目的どおりに使用することを求めており,柔軟な使用を阻害しているとの批判を生み出している。ここからは,個別補助金の補助要綱の見直しを始めとして,さらに補助金そのもののより大きなカテゴリーへの統合と裁量の拡大が論じられてもいる。そして,少なくとも納税者の観点からするならば,補助プログラムの高次の目標を認定するとしても,目的の連鎖の基底部分をも「所与」とする業績評価に対しては,公金の適正利用のみならず有効利用の規範から掛け離れているのではないか,との「違和感」が残るといえよう。

 このように事業の目的を「所与」とするといっても,その目的とは政策体系のどのレベルであるかが,問われなくてはならないだろう。もともと,業績検査を含めた事後の政策評価の目的とは,政策実施機関の活動の統制,政策実施機関への情報の提供,政策立案へのフィードバックなどにある。これら評価の目的は,事業の目的をどの段階でとらえるかと関連しているだろう。

 政策実施機関の活動統制のみが,業績評価の目的とされているならば,目的の連鎖の段階に関係なく,それを「所与」とおくこともできないわけではない。そこでは,実施機関が法規に照らして適正な支出をしているか,あるいは実施機関の事業管理が的確に行われているかなどが,評価の中心課題となる。とはいえ,政策実施機関の活動の統制は,アカウンタビリティの確保を目的として行われなくてはならない。実施機関の掲げる事業目的を「暗黙」のうちに追認していたのでは,その確保はできない。違法・不当な支出がなかったとしても,政策実施機関が問題状況を把握し,それに応える責任を遂行しているとはかぎらないのである。

 政策実施機関への情報の提供が,業績評価の中心課題に設定されるとき,事業の目的についての価値判断が必要とならざるをえない。評価はすぐれて事業実施がもたらしたインパクトについて分析せざるをえない。実施機関の掲げる事業の目的は,どのような状況判断と問題認識の上で設定されたのか。実施過程においてその目的は,どのように実現をみているのか。これらを明確にしつつ事業の経済性・効率性が,定量的に判断されなくてはならないだろう。

 さらに進んで,政策立案のフィードバックが,業績評価の主たる課題として設定されるならば,より一段と事業の目的のみならず政策体系全体の妥当性が,検討されざるをえない。業績評価は,事業の有効性についての価値判断を不可避とする。事業の有効性が生じていないのは,政策体系に問題が潜んでいるのか,具体的事業の設計にあるのか,あるいは事業の管理にあるのか。このすべての段階について,評価の目をむけなくてはならない。そして,それらを情報として政策形成にインプットしなければならない。ただし,この政策のフィードバックを中心とする評価は,評価者が政治のアリーナに否応なく引きずり出されることをも意味していよう。にもかかわらず,政策の評価者は,政治のアリーナに引き出されることを恐れてはならないだろう。

 以上のどのレベルの業績評価であろうとも,政治の世界が評価結果を政治的に問題視しようとするならば,いくらでもできることである。例えば,零細補助金の評価に際して,投入される資金規模が政策目的を達成するには不十分として,その規模を改めるように求めたとしよう。これは,先の分類としていうならば,情報の提供機能を重視した評価であるともいえる。そして評価者(機関)の側からいえば,資金規模を事業の有効性の観点から問題視したのであって,政策目的を否定しているわけではない。だが,それは評価者の「主観的意図」であって,受け取った側がそのように判断するとはかぎらない。資金規模を掲げて実は政策目的を批判していると受け取ることも,十分にありうる。要するに,業績評価は,どのレベルであっても政治のアリーナから無縁ではない。

 にもかかわらず,政策評価機関は政治のアリーナをそれほど意識しないでこれた。それは,政権の「安定」的状況があったればこそではないか。政権が頻繁に交代するような状況が生じているならば,もともと政策評価における政治的中立性論は,その妥当性を問われなくてはならなかったはずである。政権の側から政策・事業の有効性を検査するように指示されたとしても,おかしなことではないだろう。

 とはいえ,業績評価を含めた広義の政策評価が,政党政治の権力闘争の渦中におかれたのでは,評価の科学的合理性が阻害されることにもなりかねない。政治のアリーナにおいては,政権交代が活発化することによって,政策や事業のイノベーションが進展することは,望ましいことである。だが,政策評価が政治のアリーナに従属することは,少し基本に立ち入って考えると,この望ましい政治の活性化をも否定しかねないのである。なぜならば,評価情報が党利党略に使われ,政治が政策構想力を欠くことになるからである。政策評価や業績検査にあたって,評価者は,政策・事業目的への接近に「大胆」であるべきである。だが,そのためには,評価機関の独自性の保証とその権威の向上,ならびに政策過程へのフィードバック回路の構造が,問われなくてはならないだろう。

 3 政治と政治的中立性

 政策評価としての会計検査は,予算の循環の中に制度として位置付けられなくてはならない。つまり,予算上の違法・不当・経済性・有効性を最終的に決定する最高権限が,制度として確立されていなくてはならないのである。制度保証とそれによる権威の裏付けがないならば,政策評価をめぐる方法開発の努力は,ある意味で空しいものである。

 日本の場合,予算上の違法・不当・経済性・有効性の最終的決定権限は,会計検査院にはおかれていない。会計検査院長は,検査報告を内閣総理大臣に提出し,内閣は意見を付して国会に提出する。そして衆参両院の決算委員会で審議されることになっている。けれども,決算委員会で仮に経済性・有効性について疑義が提出されたとしても,そのことによって,予算の編成・実行に法的拘束が課されるわけではない。この構造が改められないかぎり,会計検査院が政治的かつ社会的に存在感を示すとするならば,もっとも手早い方法は,違法・不当な公金の支出を指摘することである。だが,ここからは,経済性や有効性の評価は,付随物とならざるをえないし,ましてや政策形成へのフィードバック機能など果たしようがないであろう。

 この決算ならびに決算の政治的統制の弱体さは,戦前期の伝統を引き継ぐものであるとしても,現代日本の政治構造に規定されているといわなくてはならないだろう。長期にわたった一党優位政党制は,予算支出を主たる集票手段としてきたのであり,決算ならびに決算の政治的統制は,予算改革の視野に納められなかったのである。けれども,一党優位政党制から限定的多党制への移行は,予算制度改革とりわけ決算の政治的統制機能の強化を,制度として確立しなければならないだろう。なぜならば,政党間の競争は,政策の経済性・有効性の確保と政策作成へのフィードバックがあってはじめて,意味をもつのであり,またそのような規範の導入を不可避とするからである。

 いったい,こうした新しい規範の導入と確率は,どのように行われるべきだろうか。そこでは,単一の回路の設定が問われているのではない。それはまさに多元的でなければならない。政党自らが,政策評価の組織をもつことも必要であろう。国会ならびに決算委員会が,政策評価機能を強化することも重要である。この意味では,国会図書館や委員会の調査機能の高度化が図られなくてはならない。行政府の側においても,総務庁の行政監察機能の強化があってもよいだろう。いずれにしても,国民に政策情報が多元的に提供され評価されなくてはならない。しかし,政策の有力な公示形式であり,有力な実施手段である予算の決算は,財政民主主義の原則に照らすとき,国会の機能強化として構想されるべきである。そして,国会が独自に決算についての評価機能を強めるにしても,会計検査院なる専門的機関による予算執行に対する評価が,まさに「政治的中立性」を規範として実施され,有意の情報として,国会に共有されなくてはならない。

 こうして,会計検査院の権限と機能をどのように位置付けるかが,新しい政治的文脈のもとで課題となる。会計検査院にもっとも期待される機能は,先にも述べたように,広い意味での情報提供機能であるだろう。そこでは,業務が適切に遂行されているかどうか,あるいは業務遂行に不適切となるような条件が潜んでないかどうかが,分析され提供されなくてはならない。さらに,政策・事業の目的の連鎖構造全体を視野に入れた経済性・有効性についての情報が,政治のアリーナのみならず国民にむけて提供されなくてはならない。前者の問題指摘に関する情報の提供にとどまることはできないのであって,後者の問題指摘情報の提供こそが,広く期待される。このような情報提供を政治アリーナがどのようにとらえるかは,それ独自の論理と行動があるだろう。会計検査は,そこまでを拘束できないし,する必要もない。むしろ,このような情報を国民にむけて提供することによって,行政と政治のコントロールに寄与すればよいのである。つまり,本来の政策評価機関としての使命を発揮するためには,「政治的中立性」および「行政の外在的統制」の概念を見直す必要があるといわなくてはならない。

 「政治的中立性」という場合の政治とは,いったいどのような意味であるだろうか。これを明確にしないで「政治的中立性」をいうとき,場合によっては逆にそれを否定してしまうこともある。ここでいう「政治的中立性」とは,あくまで政党政治全体に対しての中立である。そもそも議院内閣制を取っているかぎり,内閣の政策決定は,大統領制にもまして政権政党の意向を反映せざるをえないだろう。だが政権党が「不変」であるとき,「政党政治からの中立」という意味での政治的中立性は,「政策決定としての政治からの中立」として観念されがちである。だからこそ,政策・事業の目的に立ち入るか否かが,「必要」以上に議論され,国民のアカウンタビリティ感覚と検査結果との乖離が生まれることにもなる。

 行政の外在的統制も,「政策決定としての政治」からの中立性のもとでは,違法・不当な支出に焦点が絞られる弊を伴いがちである。行政の外在的統制は,行政機関の掲げる事業の目的についてその妥当性を問わないかぎり,不十分であるだろう。もちろん,ここにいう目的の妥当性とは,代替的目的を設定して評価してみることであって,その評価結果を公表するという意味である。最終的な目標レベルで有効性を測定しようとすれば,当然のことだが中立的・客観的な評価基準が存在しないことが多く,評価基準の中立性を犠牲にしなければならないことがある。しかし,問題は,評価基準に客観性が備わっているかどうかなのではなく,いくつかの代替評価基準ごとに,結果を示すことの方がはるかに有意義であるだろう。その情報に基づいて,行政機関さらには政治機関が,行政の自己ないし外在的統制を行えばよいのである。

 このようにみてくるならば,会計検査院が業績評価において当面しがちなジレンマは,実は新しい政治的条件の形成によって,かなりの程度解消されていくといえるだろう。現行の会計検査院法を抜本的に改める必要があるかどうかは,とりあえずここでは論じる必要のないことである。政党政治からの完全な中立を規範とし,「政策形成としての政治」には中立を宣言しないならば,そのとき業績評価の「客観性・中立性」の確保にむけて,評価手法の選択が,科学的に考察される条件は,一段と向上するのである。もちろん,費用・便益分析,統計解析法,対照実験法,計画対比法といった評価手法には,それぞれ不完全性が伴っている。例えば,費用・便益分析は,事業を純便益などの簡潔な指標によって評価できる利便性をもっている。だがそれは,公共支出の投資の効率性,ないし国民経済からみた効果の有効性を把握する方法であって,便益の帰属先といった公平性の評価手法ではない。にもかかわらず,公共支出の投資の効率性が全体として定量的に明示されるならば,予算の決算の政治的統制にとって有力な方法となる。問題は,業績検査の対象とする事業に対して,複数の評価手法をあてはめ,それぞれの評価手法から結果したものが何であるかを,分かりやすく提示するかどうかにあるだろう。それが,業績評価さらには会計検査の「客観性・中立性」の意味するところではないだろうか。

 むすび

 これまで,会計検査院の取り組んできた業績評価への関心を素材として,いわゆる検査の政治的中立性について考えてきた。おそらく,いずれの国の最高会計検査機関も,評価手法の開発への悩みの裏で,政治のアリーナとの関係をどのように認識するかに苦慮してきたといえよう。行政の検査・監査機関の活動は,政策・事業の実施機関以上に,政治なるものに巻き込まれざるをえないのであって,それとの距離を取らざるをえない。だが,距離を取ることもまた政治である。したがって,そのような機関の語る「政治的中立性」は,現実政治の文脈の中に置き直してみれば,極めて政治的であることにもなる。この一種の悪循環をどのように断ち切るかについて,解答は自明ではない。

 とはいえ,日本の場合に即していうならば,新しい政党政治の台頭は,会計検査院のいう業績検査への条件を生み出そうとしているとみることができよう。政権の頻繁な交代が現実になるならば,政治(政党政治)からの中立性は,名実ともに会計検査院に期待される規範となる。それがあってはじめて,検査・評価手法の客観性・中立性の確保とその開発が実現するであろう。そしてまた,決算についての情報提供機関としての役割も,高まるといえよう。新しい政治の枠組みに,会計検査院がどのように組織的に応えるかが,注目されているといわなくてはならない。

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