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第7号

公共財供給を評価する主体について
——経済学の視点から会計検査の意味を考える——
黒川 和美

黒川 和美
(法政大学教授)

 1946年生まれ。横浜国立大学経済学部卒,慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。法政大学助教授を経て,85年から現職。現在米国ジョージメイスン大学「パブリックチョイス研究センター」に研究滞在中。アメリカ経済学会,公共選択学会,経済政策学会等に所属。主な著書・論文は,「公共部門と公共選択」,「公共選択の考え方と税制度」,「費用と選択について」など。

 Ⅰ 経済学の視点

 会計検査あるいは業績検査という言葉が持つ特有の雰囲気を関係するものなら認識している。一種の税務署の帳簿チェックを思わせる煩わしさとすねに傷を持つものにとってはまさにスリリングな体験であるし,まったく身に覚えのないものにとってもミスを発見されるかもしれないという受験生的心臓の高なりを感じさせるものである。その意味で会計検査の意義はすでに十分達成されている。業務遂行に緊張感を与え続けることが重要な意義を持つことは疑いがないとして,それが真に関係する者にとって快い,意義のある過程であるかどうかを十分に検討しなければならない。

 たとえば,冗談半分とはいえ役所の委託研究を受けた研究者なら経験するように,金額に比例した報告書の枚数を要求される類の不合理がある。実質的な研究の成果よりは物量で評価するといった事例を会計検査は直ちに思い出させる。量的チェックが最低の保証であり,必要条件であって意義のある研究が期待されていることはいうまでもないが,成果がどうあれ研究者を一定期間駆り立てることの意味は評価されない。内容の良否より,プロセスとしての重要性,競争的駆り立ての環境を提供することの意味は大きい。このような点が評価基準にないのはある種の不可抗力的な欠点であるのだろうか。

 会計検査手法や会計検査の意義と目的を原点から見直すとすると原点とははたして何か。この原点を考えるに際して経済学者が通常用いている視点は有効であるのだろうか。そのような不安はないものとして,ここでは問わないことにして,エコノミストという立場から需要サイド,消費者主権,受益者負担,市場メカニズム重視の考え方から原点を見直す作業を試みてみたい。そして結局魅力的な公共財の供給の条件を模索するという問題に行きつくのである。

 公共財を公共部門が供給する財やサービスであると定義し,まず,

(1)政府の資源をいかに効率的——市場的意味において——に配分するかという点を予算配分機関が担うとすると,

(2)議会や法律で正当化された支出がその意思決定の意義に沿って有効に支出され想定どおりの成果を達成したかどうかを判定し,然るべきやり直しあるいは再検討を求めるのが会計検査の仕事であるといえよう。また,

(3)予算執行機関は,公共財供給ニーズを発掘し,議会に働きかけ,予算を獲得し事業を遂行する。これらのプロセスは政府が事業を遂行するに当たっての共通の責任をそれぞれの機関が分かちあい,相互にチェックしあう関係を保っているといえる。

 配分,供給,評価はそれぞれ異なる行政部局がそれぞれの責任の範囲で独立的に担っているということがいえる。公共財供給結果の評価はある意味で制度的に確立しやすいが,関係者が制度や法の真の意義を理解して,いつでもFor the peopleの立場にたって職務を遂行しなければならいという緊張感をどのようにすれば維持し続けることができるのだろうか。この場合でも,供給主体はブキャナン論文(参考文献1)で指摘されているような党派的な分配政策に奔走し,一般的な利益から逸脱して,各主体が個別利益の獲得に奔走するということは十分考えられるのである。政治は形の上で競争形態を制度として確立しており,日本では長く独占が続いているとはいえ参入自由の条件によって競争にさらされている。しかし官僚の場合は中央政府であれ,地方の場合であれ独占であり,他人の領域にまで範囲が及ぶと二重供給という汚名によって競争が排除される。また制度を厳密に設計する法律学者には範囲の経済を理解する領域が存在しないために競争の魅力が根本的に過小評価されている。役所間の競争,役所と民間の競争,無限に民間に近い公的供給といった制度の意義が正確に議論されはじめてまだ日が浅い。公的供給が近い将来社会主義に変わると考える人が主流で,公的関与の拡大を当然の流れと考えていた時代が長く続いてきたのである。ブキャナン論文にあるように,'89〜'91年の変革は多くの問題を提起しているにも関わらず我々は競争の意味を余り十分に理解しているとはいえないし,意義を認識して制度をつくるという段階にあるにも関わらずそれを意識していないのではないだろうか。

 ブキャナンの公共財の理論(参考文献3,4,5)はサミュエルソンのそれと数学的には類似していたが内容はまったく異なっていた。サミュエルソンが消費における外部性を重視したのに対してブキャナンは生産における外部性を重視した。これはベッカー(参考文献8)の究極のz財の考え方と似て消費は究極の幸せを生産する素材なのであり,そのプロセスで多くの外部性が発生し,プキャナンにとってはパレート改善であり,結合供給であり,それは一般的利益という共同によって得られる公共財なのであるが,公的供給でなければならないとはどこにもイメージされていないのである。クラブ財という概念の共同行為が提示されているのである。あるいは公共財の私的供給という概念が示唆されているのである。(参考文献2)

 この点は後の議論に譲るとしてここでは議会の決定を経て供給が正当化された歳出については,当面需要を的確に捕らえているものとしよう。その場合でも避け難い問題が発生している。

 Ⅱ 公共財の配分・供給・評価

 配分の役割と評価の役割が歳出総額の中で各支出間の関係を強く意識しているのに対して,供給の役割は関連する当該公共財の魅力的な供給,効果的な供給それ自体が課題となる。経済学のコンテクストに沿って有効な,つまり効率的な公共財供給の財政システムを考えてみよう。

 限られた予算の中で,中央地方を問わず供給主体(たとえば各所管の官庁)は,多くのニーズを議会を通じて政治家,直接的な国民の意思表示,あるいは地方自治体の首長らの陳情,あるいは年々の公共財供給に関する経験から多くの公共財供給ニーズを抱えている。関連予算の中で独自に予算案を作成し,配分主体(たとえば国の場合は主計局)にその案を提示する。このプロセスで供給主体はポリシーを明示しなければならない。その財の供給の必要性とニーズの大きさ,あるいは供給システムについてまで言及し,その時代的要請,他の主体ではなく当該主体が供給する意義が示される。さらに予算案が議会で承認されるという過程を経ることによって他のシステムではなく当該システムが正当性を獲得する。

 厳密にいえば各供給主体がそれぞれ固有の,あるいは同様のポリシーを明示するとすれば,議会を経るプロセスで競争的に供給を競うか,結託を図って共同で案を作成するかといった選択を迫られることになる。近年,総合政策を意図した供給主体間のすべての意見を少しずつ取り込んだ共同提案が増加している。ことに,重要提案はほとんどが多省庁の合意に基づく競争を排除した結託型(Coalition Type)の提案になっている。この点を結果として良い成果を与えていると評価すべきか,競争メカニズムを欠いた非効率なものになっていると考えるべきかは少し厳密な分析が必要である。というのは原理的にみて,各省庁間では制度上完全に役割分担が追求されており競争を想定していないし,重複的な供給は競争を生み出すとしても意義を認めていないからである。この点は二つの点で検討の余地があると考えられる。

 第一は,供給主体間の競争を想定しないというシステムについてであり,第二は,通常のイノベーションの生まれる過程は範囲の経済や外部性あるいはまったく別の技術を移転するといったケースがほとんどであり,現行の制度では供給主体が次第に供給範囲を拡大したり,複合供給することを想定していないという非現実的な制度的基礎にたっていると考えられるのである。

 問題点は後に回すことにして,ここで経済学的にみて重要なことは

①供給される公共財の質と量が正当化される

②供給される公共財の供給システムが正当化される

ということである。ここでの議論にとっては①よりはむしろ②の点の方が重要である。元々,

①財政支出に依存すべきか,それとも市場に委ねるべきかという代替的なシステム選択が行われているからである。この正当化はもし改訂されるとすると同じ議会による見直しの正当化とさらに基本ルールによってや制度によって時限的な供給の正当化を図るといった見直しの制度が組み込まれている必要がある。たとえばNTTの民営化に際しては5年後の見直しが同時に決定されたようにである。さらに,

②国が供給すべきか地方自治体が供給すべきか,あるいは,

③民間に委ねて補助を出すべきか,

④公企業に委ねるか,

⑤第3セクターに委ねるか,その場合管理責任は誰にあるのか。

 これらの制度選択は決して二者択一ではなくて,無限のバリエーションがある。この無限のバリエーションの存在に気づいたのもこの10年といった最近のことにすぎない。これらの選択もいずれの時期かには見直されるべきであり,正当性は時限的に決定されるべきであるかも知れない。制度の無限のバリエーションの存在でさえほんの最近理解されるにいたったものであり,無限の組み合わせの中から制度の改善を図るというよりは狭い民間と公共の2分法,民間企業と公企業の2分法の世界から多くの人々の頭は抜け出ていないのかもしれない。実際NTTの民営化でさえ幹部の不正という事件によって民営化直後にあった新鮮さが失われ民間企業に期待していた多くのものが失われている。一方でコントロールされた新規参入企業との新しい結託の可能性も生じている。しかも制度の見直し責任は供給主体である郵政省が負っている。競争関係は公正取引委員会がチェックし,経済制度としての成果を経済企画庁も公正価格の観点から言及できる。制度はその意味でチェックのメカニズムを多重に備えている。しかし公民の間には無限のバリエーションが存在しているが,これらのチェックメカニズムは怪しい市場をチェックするためであって,怪しい公共財供給に関する適切な制度を適切な時期に的確に選び出し,あるいは適切な時期に修正する工夫は誰かが常に発見しなければならない。

 ブキャナン論文にもあるように,私たちは議論を始める前に議論を止めたり,議論をいつまで続けるか,あるいは次にいつ議論をするかといったテーマを軽んじてきているし,適切な議論のシステムに関する技術開発が遅れている。これらの技術開発は誰の責任で行われるべきなのだろうか。誰かがゴネた場合どのように処理するかについて客観的なルールを作っておけば,バカげたその場しのぎの茶番は少なくなるというのに。総務庁が担う役割,会計検査院が担う役割の高度化は次の重要な技術革新の一つである制度技術の高度化世代に依存する。

 需要者である人々にとっては,

1 財それ自体から生み出される効用と

2 その財が固有のポリシーで供給される制度に対する効用

のその双方を受け取ることになる。しばしば,この供給は法律によって明示的に成文化されて目的や意識が長期的に確立される。

 ところがしばしばこの部分は経済学の領域外とされてきているのである。しかし制度は重要な公共財の主たる部分を形成し,人々はこの部分にも当然,税を支払っている。負担ウエイトでいえばこの部分はサービスないし人件費に該当し,承知のとおり地方財政でいえば全体の30%近い割合になっている。

 後に論じるように,制度は一度制定されるとそれ自体が広い意味で独立した存在となり,自己主張し,自己増殖する。予算は年々厳密にチェックされているが制度は同時に厳密にチェックされているだろうか。少なくとも創設されたときの意気込みや情熱と同じ情熱を維持できるのだろうか。このような点を厳密にチェックするために,財政についてはかつてサンセット方式が論じられた。また予算についてでさえ,増分主義(インクレメンタリズム)(注1))の考え方を多くの財政学者はやむを得ぬことセカンドベストの解決として理論的に弊害を論じても現実問題としてはむしろあり得べき解決方法とみなしている。ブキャナン論文(参考文献1)にも示されているとおり制度やシステムを効果的にチェックする制度−公共選択の考え方に沿っていえば憲法の経済学(Constitutional Political Economy)の領域に含まれる経済学の新領域である。制度の問題をあえて経済学の領域からチェックする比較優位性は何かについては本号所収のブキャナン論文を参照されるとよい。

 公共財供給を評価する主体の仕事はここで明確に二つに分かれていることが示唆されている。

①公共財サービスそれ自体の質と量が適切に確保されたか。あるいは予算が最終的な財の供給に適切な額であったかという有効性,経済性の観点からの評価であり

②財を供給するシステムとして採用された当該システムが正当化されたポリシーに照らして適切であったかといった政策評価の問題である。

しかしこの2点を行ったとしても恐らく評価としては十分ではないのではないかというのが本論で取り上げる点なのである。

 議論の中心命題は,このように結合供給されている公共財の財それ自体の質と量が生み出す効用,及びポリシーそれ自体である供給システムが持つ効用を分離して考えることは容易であるが,それぞれを個別に改善したり,個別に資源を配分することが困難という問題があるからである。いつでも結合供給された一体としてしか費用便益の概念では評価されないし,財サービスそれ自体の効用と背後のポリシーを総合的に評価するシステムを持ちあわせていないという問題があるからである。

 たとえば,供給システムは一定の評価を得ているとしても財サービスは問題があるというケースやその逆のケース,あるいはともに問題であるケース,どちらも問題がないケースというのが大きなケース分類になるが,実際には無限の評価のバリエーションがあり限界評価はことさらに困難である。

 制度の選択あるいは設計ミスがどれほどの損害を国民に与えたかといった議論,あるいは代替的な制度やシステムを採用しなかったことがどれほどの機会費用を国民に与えたかといった議論はどこでもされず,国民は大きな犠牲を払って次の機会に備えるほかないのだろうかといった問題なのである。

 Ⅲ 増分主義評価と憲法革命的評価

 今後の議論のために「国民の選好は一定時間単位で変化する」と仮定しよう。

1 もし国民の選好がまったく変化しないのであれば,法や制度の目的に対応する公共財サービスの供給は単純に技術選択の問題となる。また,

2 公共財の選好顕示の問題も解決済みで行政や政治によって完全に人々のニーズは把握されているとし,

3 かつ個々人であるいは党派的に分配政策を追求するよりも共同で追求する方が一般的利益が大きいと人々が認識しており(囚人のディレンマからの解放),

4 憲法的規則として社会で一般的利益の追求が認められるという状態を想定する(憲法の経済学の世界)のである。

 これらの公共財に関する従来あり得ないとされている仮定に同意できるかどうかは別にして,同意したものとして議論を進めると,

①生産技術は確実に高度化している

②人々の所得水準は技術水準の上昇の影響を受けて増加していく

③合理的個人からなる社会を想定すると人々は時間の経過とともに経験を積み,知識を増やし,異なる意思決定基準を備えていると仮定することと同じである。

 まして人々が非合理的であると想定するなら,一定確率で以前と異なった選好を持つことは統計的には確実である。また,憲法の経済学の立場にたって,人々が合理的個人であると想定すると,個々人は彼が置かれた環境の中で彼固有の選好関数を基礎に繰り返しの選択ゲームの中で多くの優勝劣敗の経験を積むことによって,類型化した一つの彼固有のルールを採用し,それに沿って意思決定し,行動するようになるとされる。またそれと同時に他人との関係についても人々の間の共通のルールや制度が生み出され,歴史的経験の蓄積の上に地域や国固有のルールが形成されて,それに人々が依存するようになる個々の地域の憲法が,あるいは共通規則が成文化されるか否かは別にして形成されることになる。

 異なる技術,異なる所得,異なるルール,などこれらが一定の方向に向かっていると示唆できるとはいえ変化する動態的世界の中での配分・供給・評価を論じなければならない。評価についてだけ考えるとしても動態モデルの中での評価作業としての増分主義を採用しなければならないだろう。実際はもっと深刻な困難な世界に私たちは置かれているわけだからセカンドベストを追求すべきであるというのが正論であるが,ここでは経済学のコンテキストに従って議論を進めてゆく。政治は人々を党派的な利益追求に走らせ,一般的利益よりは個別の自分自身のあるいは自分が所属するグループの利益を追求させ,人々も錯覚に陥って1を得る5%の可能性より5を得る1%の可能性を追求することになってしまっているのであるが……。

 ここで二つの点を再確認しなければならない。

①人々の選好は時間の経過とともに確実に変化する。

②時間の経過とともに人々は,一般的利益に合致するかどうかは別にして共通の制度やルールに依存するようになる。これはBounded Rationalityの説明で正当化されるのであり,人々も,制度も,習慣を形成し,ルーティン化し,自己の,制度の基本ルールを形成する。この過程は予算過程では増分主義と呼ばれている変化である。

 という二つの点についてである。この二つの点と評価主体の役割を重ねて考えると,いくつかの点が明らかになってくる。

①評価主体は当然一つの財政制度の中で不変的な役割を与えられていると考えるのか,そうではなくてそれは出過ぎた考えであって,

②行動コードが与えられていて,現行制度の番人として自己の仕事を全うするのかという問題である。後者であれば,評価主体の個々の構成員は人材として社会的評価を受ける場合に,配分主体や供給主体と比較して不利な立場に置かれてしまう。

 この問題は,配分主体,供給主体の場合には明らかに異なっている。経済学の立場で論じるときには,供給主体は,たとえ独占的な存在であるとしてもその時々に国民的に,地域的に必要な公共財サービスの供給を担うと想定するために,常に人々の最新の選好に関心が向けられると考えられている。同様に配分主体も人々の選好を基礎に限られた予算を配分すると想定するから,過去から継続している歳出構造全体を見回した上で,新たに加えられるもの,削られるものを検討している。情報は先方から集まってくるし,ネットワークも自然に生まれる。つまり制度そのものを形成している担い手であるといえ,しかも予算案として国会や議会の承認を得て時代の正当性を確保しているのである。

 一方評価主体は自ら多くの情報を手間のかかる調査と権威によって手に入れていなければならない。

1 当該公共財サービスが供給の正当性を得られた,①その時点での国民のニーズと,②供給主体の意図と,③議会の付与したポリシーインプリケーション

2 実際に供給された結果に対する客観的評価に必要な情報,①供給システムが合理的なものであったか,②ムダ遣いはなかったか,③事業の進捗状況,④投入努力が満足できるものかどうか,⑤人々に快く受け入れられたか。

 などなどである。

 明らかに大きく三つの評価基準がここに存在している。

1)供給意思決定時における基準,主として事前の国民選好

2)技術的基準(予定されたとおりの手順で供給されたか,見積は適切であったか,手抜きや,ムダがなく正しく執行されたか,予想されなかった結果は発生したかなど)

3)事後の国民の選好

 そして,1),2)の基準に基づいて評価をすることで良いのか,それとも3)の基準に基づいて議論することこそ重要であるのかということである。結論を先取りしていえば,1),2),3)のすべてが必要な過程であり,国民の選好が変化するという動態的なモデルを考える場合には3)のプロセスを欠くことができないというのが本議論の中心テーマである。

 人々の選好が絶えず変化していることを前提にすると,年度予算単位で供給される公共財は理論的には常に時代遅れの産物となる。もちろん現実的に考えてこの程度の誤差は無視できることとし,深刻な需要供給ギャップだけを避けることを考えると中長期にわたってニーズを推測し,長期的にみた基準で予算が組み立てられ長期的に財政基盤が確立されていなければならない。個々の公共支出はそれぞれ一つの制度の形で供給されていくだろう。この場合の財が生み出す効用は最初に指摘したように財それ自体の消費から発生する効用と財を供給する制度が生み出すポリシーが持つ効用の二つの部分に分けて考えることができる。

 この二つの部分のそれぞれのニーズは人々の選好が変化することを前提にすると,ともに再評価の対象として考えなければならない。当然評価主体も専門的,技術的視点からのものと,一般的国民的大衆的視点(しばしば近視眼的になりやすいが市場的評価に近いものとして重視しなければならない)からチェックされることになる。

①前者は独立した専門的判断力を持つ人格としての評価者の立場であり,

②後者は消費者の立場にたっての代理人としての評価者の立場である。

 配分に際しては,配分主体が全体の予算に個別の支出項目の相対的なウエイトづけを可能にしていたし,また年々の行事として予算案を国会を通過させるという正当化の過程を経過しなければならないが,この評価過程では全体の中の一部に対する結果評価は示されることがない。逆に,個別の予算の執行についてのミスのチェックという点では供給主体と評価主体はともに異なる立場で行わなければならないだろう。

 独立した専門的判断力を持つ固有の人格を持った主体であることは彼らが何を良いと評価しても構わない代わりに,困ったときには取り替えることができる,あるいは競争的な関係を維持するといった工夫が必要である。合衆国の大統領の交替とともに多くの官僚が入れ替わるといったシステムが組み込まれることである。もちろん決してそのようなシステムが合理的であるというわけではないが,そうすることで評価主体の人格を認めることができる。これに対して代理人としての評価人は判断基準を消費者主権とし客観的な情報を淡々と依頼者である国民に示し続けることになる。ただ①と②の立場が一致する場合があり得る。人々が市場の機能を十分に理解し,党派的利益の追求から発生する囚人のディレンマ状況を脱する心構えができていたり,個別の応急的,対処療法的政策が過大な負担を生み出して有効性を失い,一般的な利益の追求の方が有効であると人々が広く認識した場合,人々は改めて基本的な合理的ルールで再調整されるケースであって,ブキャナンはこれを憲法革命,一つ一つのプロセスを憲法的進化と呼んでいる。

 実際,近年の会計検査報告書がそのような姿勢を取る端緒を切り開いていることは多くの専門家から評価を既に得ている。個別の政策追求よりも一般的利益の追求を示唆する評価報告書の性格を持っているからである。

 全体の中での個々公共支出の相対的な位置づけに関する評価と,独立した人格で広い見識から予算執行過程を検査するという2点は現行の制度の見直しを必要とする考え方を必要とすることになる。別の見方をすれば,限られた資源(人材,予算,時間)の中で評価主体は評価主体固有の努力,つまり固有の資源配分を行わなければならない。しかしその努力の仕方あるいはポリシーは明確な基準で評価されているわけではない。

①評価主体のスタンドプレー

②評価主体の行動のマンネリ化,事なかれ主義

③評価主体の専門的マニア的分析

④評価主体の威圧的行動

⑤評価主体の他の配分,供給主体との結託

⑥評価主体の政府の姿勢への従属

など生じても決しておかしくないような行動に走る可能性がないわけではない。厳しい競争関係の中から選ばれようとする行動や,安泰の地位を守り続ける行動まで,新しい試みを行うフロンティア精神から,マニュアル通りの職務遂行まで組織として,官僚としてやはり無限の選択可能性を持っているのである。

 これまでわが国の場合,会計検査院が固有の重みを持って業績評価を続けてきている理由ははたして何だろうか。重みが重みとして受け入れられている理由は何だろうか。どこの国でも強い権限を与えられると重みを維持できるのだろうか。

1 マンネリ化を避けるためにどのような工夫が行われているのだろうか

2 木をみて森をみないといった細かい指摘に陥ってしまわない工夫はどのように行われるのか

3 供給主体との妥協が発生しないように工夫されているのか

4 ポリシーは政治から受けているのか,固有のポリシーを持っているのか,それとも制度で規定されているのか

5 踏み込んで調査できる権限は誰から与えられているのか

6 より広い視野,一般的利益の示唆の可能性がどのように与えられているのか

 公的な制度の設計は評価主体に限らず,正当性,権限,独立性,予算を中心に制度として確立されて,そこに人材が配分されている。人材は,地位の保証や所得,社会的責任の魅力,仕事としての魅力,社会的評価を基準にして平均以上に能力を発揮するかあるいは平均以下の能力を発揮するかを想定しなければならない。もっとも有効な,効果的な,限られた資源に基づく,効率的な評価制度の設計を考えることになる。

 しかも,他の組織との関係でもっとも効果的な役割を果たす評価機関としてである。しかも組織は一人歩きを始め,固有の知識や情報ネットワークを形成し,経験を重ねて固有の複合能力集団になっていく。この能力形成は限定使用を余儀なくされると資源それ自体の低度利用に陥ってしまう。限られた固有の情報や知識,経験を持つ集団であればあるほどその組織と関わりなく社会的に高い評価を受けることになる。実際多くの官僚が地位から発生した能力を認められて他の職業にトラバーユしているのはそのためである。もし組織の構成員の行動が限定されると彼らの集団としての範囲の経済も個人の能力としての範囲の経済も生かされなくなってしまう。

 公共部門の人材活用の考え方も競争的で自由な移動が保証される条件が保証されているべきである。と同時に集団としての組織の能力も限定されない自由な活用が可能かも知れない。このような議論が成立する背景には,経済学の基本的なミクロ的視点である労働力や土地,資本あるいは技術や情報が市場メカニズムに基づいて自由に移動して,あるいは用途を変更して有効に活用されていくことが前提となっている。しかし公共財の供給の評価に関してこのような経済学的な視点は従来考慮されていないし,範囲の経済やネットワークの経済の有効な活用,外部性を前提とした集中集積の利益などについて考慮されるようになったのはごく最近のことにすぎないのである。

 Ⅳ 人材評価,財サービス評価,制度評価

 供給主体にとって変化する人々の公共財へのニーズを的確に把握しなければならないインセンティブは存在するのだろうか。他の供給主体の抱える公共財ニーズと当該主体のそれがどちらがどれほど大きいかを相対的に比較する立場にはない。それ故,次のような仮設を立てて議論しても良いだろうか。

1 供給主体は自分の供給する公共財こそ重要であると考え,その供給を是非確保し,拡大したいと考える。

2 予算の制約がきびしい場合には,限られた予算を用いて供給の量を減少させない新たな制度を確保しようと考える。

3 将来確実に供給増加が予想されている公共財の供給に対しては,他の供給主体と結託を結んでさえ供給を抑制させ,自分が責任を持つ公共財の供給条件の将来の道を確保する。

 問題は次第に必要性が減少している歳出に気づき難いことであり,誰よりも当該供給主体が必要性の減少に気づかないし,気づいていたとしても利害関係者からの圧力をもっとも受けやすい立場にある。しかし評価主体とは異なり特定分野の財サービス供給に元々関心があって職業選択し,次第にその分野の社会的,制度的,技術的専門家の地位を築いている。知識,経験はもちろんのこと人間関係や情報のネットワークは極めて希少で,価値のあるものを蓄積している。

 社会的責任の追及に携わっていることが,結果としてその過程で彼自身の存在理由を公的にも私的にも高めることになっていくのである。

 これに対して配分主体は新たなニーズへの対応と同じ強さで不必要になりつつある歳出を探す仕事が重要になる。そのため,客観的な不必要度指標が必要になるが,供給主体からその情報を得ることは不可能であるために,評価主体の特に不必要度指標には強い関心を示すはずである。この点においては配分主体は評価主体の提供する情報が魅力的であるが,一方評価主体にとってはその役割上既に公表されている配分基準に関する情報しか必要ではない。予算が限定されればされるほど配分主体には自動的に情報が集中するし,配分主体は新しいニーズが生じている場合には特に既存の支出に手をつけざるを得なくなってしまう。一方,制度上は評価主体にとっては,新しいあるいは潜在的に高まりつつある公共支出の必要性には気づかずにもっぱらこれまでの支出の意味を問い続けていることになる。この点において,配分主体よりも,供給主体よりも新たなニーズへの対応,変化するニーズへの対応という視点が評価主体には乏しくなってしまう。自ら主体的に財サービスを供給するという責任とそれに伴う範囲の経済が評価主体にはないという問題である。

 評価主体にとって新しいニーズへの対応が遅れるということはどのような問題を引き起こすことになるだろうか。資源を新たなニーズに向かって組み立てるという市場固有のドライブ,それを背後から支える社会資本ニーズを直接感じられなくなっていくことが公共部門の抱えている深刻な弱点なのである。

 総括的なまとめをしてみよう。

 公共財の財サービスの評価を行うのか,供給システムの評価を行うのかという議論は分離して考えることが基本的に困難であることを論じた。

 さらに限定された財サービスの評価になればなるほど評価主体の範囲の経済が発生する余地が狭められてしまうことが予想されると論じてきた。財サービスそれ自体の効用と供給システムの効用はしかし分離して考えることはできても,結合供給されている二つの効用を,経済学の手法である限界分析や配分効率を考える視点からの分析をする場合には,この二つを分離して行うことができない。代替的な財サービスの供給比較分析は一体的に行わざるを得ないのである。

 一つには公共財に固有の問題であるが,範囲の経済の問題は人材の魅力的な活用に関する組織一般論の問題である。これら二つの問題を同時的にクリアする一つの方法として人の評価を行うというのはどうだろうか。

 供給された財サービスについてではなく,人々のために置かれた立場で彼固有のポリシーで十分な努力を行ったかどうかを政治家が選挙の洗礼によって評価されるように公共財供給責任者を投票に類似のシステムで評価するのである。当然評価主体は客観的な判断基準を国民に提示しなければならない。

そうでなければ,評価主体は固有のポリシーで専門家の立場から重大な発言を準備しなければならないし,政府からの委託を受けた研究所や中立機関が調査・分析し発言するといった方法を採用することも考えなければならない。

参考文献

1 Buchanan, J. M. "The Triumph of Economic Science, is Fukuyama Wrong and, if so, Why?" 1993本号所収

2 "An Economic Theory of Clubs", Economica, Fev. 1965

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5 Demand and Supply of Public Goods. Rand McNally, Chicago, 1968 公共財の理論 日向寺 山之内訳

6 Constitutional Economics 1991 コンスティチューショナル エコノミクス 加藤監訳 関谷訳 有斐閣 1992

7 Buchanan, J. M. and Viktor Vanberg

"The Market as a Creative Process" Economics and Philosophy 1991

8 Beckor, Gary S. The Economic Approach to Human Behavior, Univ. of Chicago Press 1976 経済理論 宮沢監訳 清水訳 東洋経済

  1. Wildavsky, A. Budgeting: A Comparative Theory of Budgetary Process, 1975

注:

1)今年の予算は昨年の支出金額の関数であるというのが増分主義のもっとも単純な説明であり,定義である。増分主義は単純な予算ルールを示唆しており,理論というよりは観察から発見された官僚の行動様式である。問題はなぜ意思決定者はそれ以外のルールに従わないのか,そして増分主義に従うのかについての確かな説明を見つけることである。そして限られた,制約の中での合理的な行動として,Bounded Rationarityという言葉に表現される,限られた資源,時間,資金,人材情報,能力の範囲内でのベスト,しかも官僚という立場での合理的な行動が増分主義を選択させるというのがその説明である。

 予算の作成に当たっては増分が当てはまるのであれば,制度の維持や改善についても増分主義が該当するに違いがないし,まして官僚の立場から合理的な行動をとるとすると,半自動的に,習慣的に,前任者が行ったように行動することになるのである。

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