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第6号

会計検査院による「政治的」コントロール
石森 久広

石森 久広
(大島商船高等専門学校講師)

 1962年広島県生まれ。広島大学法学部卒,同大学大学院博士課程単位取得。日本学術振興会特別研究員(DC)を経て,89年より現職。日本公法学会,日本財政法学会等に所属。行政法学専攻。主な著作は「財政コントロールに対する裁判上の権利保護」『人権の司法的救済』(畑博行先生還暦記念,有信堂)所収「国家財政の経済性コントロール(1)〜(3)」大島商船高専紀要23号,『基本行政法』(村上武則編,有信堂)など。広島県立三次看護専門学校,広島大学法学部,同総合科学部非常勤講師。

 はじめに

 憲法上の独立機関たる会計検査院の「政治的中立性」は否定されざる原理である(注1)。しかしながら,会計検査院は今日,単に計数上の合規性や合法性を審査するだけでなく,国家財政の「経済的」運営を確保すべく,「経済性」基準に基づく包括的なコントロール権限を与えられている(注2)。そしてそのためには,たとえば会計検査院の扱う検査報告が,議会での議論や世論を通じて,政治的な議論に多大な影響を及ぼすことなど,副次的ではあれ,しばしば大きな政治的影響力を発揮すべきことが期待されている(注3)。

 会計検査院が政治的決定に言及することの是非について,これまで,とくにドイツでは,学説・実務を通じて多くの議論がなされてきた(注4)。その際,議論の出発点となる「政治的決定」という概念には多義的な傾向が見られ,問題の立て方も,それに応じて次の2つに大別され得る。すなわち,まず第一に,いわば形式的に,議会そのものが「政治的」機関であるから,その議会の行う決定がすなわち政治的決定だとして,それに会計検査院のコントロールが及ぶかどうかを問うもの,そして第二に,いわば内容面に着目し,議会や政府の行う活動のうち,政治的基準に基づいて行われた決定のみを政治的決定として,それに会計検査院のコントロールが及ぶかどうかを問うものである(注5)。このような問題の立て方の相違によっても,各論者の結論に影響が及んでいるように思われる。

 このうち前者の問題は,会計検査院は立法者のコントロールも可能かという問題としても議論されるところである(注6)。これに関しては,従来はなるほど否定説が支配的であったが,近時の有力な見解は,立法者のコントロールも場合によっては可能であることを承認してきている。判例も早くから,法律の規定あるいは予算の項目にもコントロールが全く及ばないわけではないことを,消極的ながら認めている(注7)。

 本稿は,政治的決定を後者の意味で捉えた上で,そのような政治的決定にも,「政治的中立性」を侵すことなく会計検査院のコントロールが及ぶ範囲が存在し得るものと考え,またそれが積極的に要請されていることを論じる。その際,伝統的な理論状況とは異なった様相を呈してきた,とくに90年前後におけるドイツの学説を参考にし(注8),その場合の「会計検査院の政治的コントロール」の意義と限界を探っていくことを目的とする。

 以下,まず第一章で,「経済性」原則の内容とそれが検査基準として「政治的決定」に適用される場面で生じる諸問題を,続いて第二章で,会計検査院が「政治的」コントロールを行う際に検討を要する幾つかの原理的諸問題を,そして第三章で,「政治的」コントロールが会計検査院に要請される背景について考察する。

 Ⅰ 「経済性」検査基準と財政コントロール

 (1)「経済性」の特質と射程(注9)

 会計検査院の検査基準としての「経済性」の特質は,次の点にある。すなわち第一に,「経済性」の適用領域は,「目的−手段」を定める目的プログラムである。経済性原則は,そこでの目的と手段の関係を最良化することを要求する,つまり合目的性審査の形式をとる,いわば手続的な原則である。しかし,必ずしも唯一正しい解答の発見を要求するのではなく,実際には不当な関係の除去を要求する点に特徴をもつ。第二に,「経済性」基準は,ドイツでは憲法にも規定され,予算法上も国家機関に対してさまざまな形で要求されている。つまり,その限りで法原則でもあるので,ここでは伝統的な合目的性と適法性の対置は修正されねばならない。すなわち,経済性に関する合目的性の問題も,すべて裁判所によるコントロールが及ばない法外的な領域におかれるのではなく,一定の場合には適法性の問題にもなり得るのである。そして第三に,法原則としての「経済性」は,いわゆる「内部法」に属するが,例外的には外部法的効果をも有することがある。この場合にも裁判所によるコントロールが及ぶことが考えられる。

 以上のような特質をもつ経済性基準も,実際には「経済性」の一義的な適用が困難なことから,「不当」の指摘ですら,誰の目にも明らかなほど不経済な措置にのみ許されるとする「自制説」,つまり,会計検査院は「経済性」検査に際しては自らを抑制しなければならないという見解が,学説において有力に主張されてきた。この,おそらく従来の通説と思われる見解によれば,会計検査院は,コントロールされる財政行動がなお「代替可能」である場合には,異議を唱えてはならないのである(「代替性理論[Vertretbarkeitstheorie]」)(注10)。また同様に,会計検査院は,経済性原則の明白な違反の場合にのみ,つまり,政府または行政の措置が誰の目にも明らかなほど経済性原則に違反している場合にのみ異議を唱えることが許されるという「明白性コントロール(Evidenzkontrolle)」なる理論も有力に主張されている(注11)。

 (2)有効性コントロール

 経済性原則の内容に関しては,学説で必ずしも一致しているわけではない。しかし,内容的に次の2つの要素を含んでいることは,ほとんど争いがない。すなわち,①与えられた手段でできるかぎり大きな成果を達成すること(効用最大化原則または単に最大化原則),②特定の効果をできるかぎり少ない手段で達成すること(費用最小化原則または単に最小化原則),である。

 このうち効用最大化原則は,特定の手段でもって,いかなるレベルの目的が最良に達成できるかという問題である。したがって,一方では予算作成の局面で,また他方では,行政による目的具体化の局面でも適用され得る。それに対して費用最小化原則は,主として,行われた支出の適切性を事後的に検査する場合に適用される。したがって,会計検査院は,できるだけ具体的な,そして確定的な目的の存在に依存することになるのである。このように最大化原則および最小化原則は特徴をそれぞれ異にするのであるが,従来ドイツの会計検査院が,実際に重点をおいて適用してきたのは,最小化原則の方であるといわれている(注12)。

 もちろん,行政支出の最小化の観点が重要な意義をもっていることは疑われない。しかし,それにもかかわらず,予算に基づいて金銭が支出される以上,できるかぎり大きな成果が達成されるべく任務を割り当てられているという側面も看過されてはならない(注13)。したがって会計検査院も,行政機関によってなされた目的達成の程度をそのまま所与のものとして受け入れることなく,当該任務達成の程度がさらに大きくされ得るかどうかにも審査を及ぼす必要がある。経済性コントロールの目標が現存財源のより効率的な利用の実現にあることからすれば,任務達成の検査は,単に支出の減少の観点からだけでなく,手段の有効性の上昇の観点からも行われなければならないのである。この点,近年では,財政援助を受けた事業などの成果を,所期の目的と比較して有効なものかどうかを判断する「成果コントロール(業績統制)」が,実務においても注目されてきている(注14)。

 ただし,このような「有効性」コントロールは,目的と成果を比較する過程で,目的自体の不合理性にも出くわす場合があり,また,より上位の目的に不適切な点があることに気づく可能性もある。このとき,あくまでも設定された基準を所与の前提として受け入れなければならないか,あるいは一歩進んで目的の不適切性にまで言及できるか,できるとしてもどのレベルの目的まで可能か,という困難な問題に遭遇する。とりもなおさずそれは,政治的・政策的決定に会計検査院が言及できるか,という問題と密接にかかわっているのである。

 (3)目的達成のコントロールと目的選択のコントロール

 会計検査院が,議会または政府の設定した目標がその費用でそもそも達成可能であるか,あるいは目標達成を目指す際に選ばれた手段が費用の点で適切かどうかといった問題に言明するかぎり,とくに問題は生じない(注15)。問題は,会計検査院による,目標それ自体への批判である。たとえば,経済性を「大砲でスズメを撃つべからず」という基準として適用するならば(注16),何が大砲まで使用する価値のない「スズメ」なのか,逆に「大砲」を使用する価値のある目標は何か,ということに,会計検査院として言及できるであろうか。

 経済性基準自身,前述のように最良の目標を選択させる基準を提供するわけではない。したがって,経済性基準は,目標選択のためには何らかの外部からの補完を必要とする。そこで,たとえば関連する法秩序,なかんずく憲法の諸価値が考えられる(注17)。しかし,それをもってしても,目標選択基準としてそれほど有用なものになるとはいえない。たとえば,議事堂建設と生活扶助との比較において,どちらが優先すべき目標となるか,その選択の基準とはならないであろう(注18)。ここでは憲法上の基本権それ自体が具体的に衝突しているのではなく,単に経済性の審査のために目標が競合しているにすぎないのである。しかも実際には,二つの目標が二者択一的に会計検査院の前に提示されるわけではなく,一つの目標が存在するにすぎない。ここで目標選択の批判が行われるならば,その目標と比較されるのは,それを断念したときの節約できる資金それ自体ではなく,代替的に考えられ得るすべての目標である(注19)。会計検査院はそれらの中から代替目標を自ら選び出し,政治的に選ばれた目標と比較することになる。ここまでくると,そのような目標選択批判は「非政治的な」あるいは「純粋に法的な」活動とはいえず,会計検査院には許されない政治的活動,との批判にさらされることになるであろう。

 しかしながら,あくまで効用が費用に照らして「適切」である行為が経済的であるということには間違いがない。会計検査院は,費用と効用,あるいは成果と支出が互いに「適切な関係」にあるかどうかを審査することができなければ,会計検査院に「経済性」検査が委託された意味が没却されてしまうのである(注20)。したがって,当該目標の費用あるいは財政的効果が検査され,資金投入の価値がないということが明らかになれば,会計検査院は,その目標の追求を断念することを勧告する必要が生じてくるであろう。たとえば,環境の負担軽減および乗客の快適さのため,従来あるバス路線に代えて鉄道を敷くために費やす極めて多額の資金が非経済的かどうか(注21),という問題があれば,それについて,会計検査院としても見解は表明できるであろう。ドイツの連邦会計検査院の公式見解,すなわち,「会計検査院はなるほど政治的決定を尊重しなければならないが,しかし,他方,そのような決定の『事実上の前提(tatsächliche Prämissen)』を審査し,政治的決定の予測していなかった消極的な『結果』を指摘する権限はある」という見解も(注22),このように理解することができるかもしれない。ただし,ここからさらに進んで,これに代わる適切な代替目標を会計検査院自身が提示することまでは許されないであろう。しかし,すでにそのかぎりで,政治的決定も会計検査院による経済性コントロールから免れ得ないことになるのである。

 Ⅱ 会計検査院による「政治的」コントロールの原理的検討

 (1)民主主義的正当性

 政治的決定は会計検査院のコントロールに服さないという命題は,まず,会計検査院は,直接国民によって選ばれた議会,およびこの議会によって選ばれた政府と対比して,民主主義的正当性をもたない,という主張によって根拠づけられる(注23)。

 しかし,この点ドイツでは,国家権力の行使に際して必要とされる民主主義的正当性に関して,二つの基本形(Grundlage)が存在するという(注24)。この正当性の分類は,会計検査院にとってまさに意味をもつものであるが,会計検査院の地位をめぐる議論においては,これまであまり注目されてこなかった。

 まず,正当性の第一の形態は,定期的に繰り返される選挙に基づく。選挙によって国民は,直接または間接に,憲法上予定された組織を担当し,憲法上予定された機能を行使する人物を決定する。つまり,周期的に繰り返される選挙が,「人的な」民主主義的正当性を確認するのである。そして,正当性の第二の形態は,憲法が,国家権力を根拠づけ,これを特定の装置に委託し,これに特定の機能を割り当てる,ということに基づく。憲法は,それ自身,国民の憲法を制定する権力に基づいているので,憲法が創設し,機能を割り当てた組織もまた,憲法に直接的な「制度的」および「機能的」な民主主義的正当性を有するというのである。

 まず第一の形態につき,会計検査院もまた,間接的とはいえ,「人的な」民主主義的正当性を有する(注25)。なぜならば,ドイツ連邦会計検査院の院長および副院長は,連邦政府の提案に基づいて,連邦議会によって選出され,連邦大統領によって任命されるからであり,また,他の構成員も,会計検査院の院長の提案に基づき,連邦大統領によって任命されるからである(連邦会計検査院法第5条)。我が国の場合も,検査官の任命に際しては両議院の同意を必要とする(会計検査院法第4条第1項)。

 しかし,会計検査院は,とりわけ,第二の「制度的および機能的」な民主主義的正当性を有する。なぜなら,憲法制定者は,会計検査院を,基本法第114条第2項によって,構成員の裁判官的独立性,および,それとともに会計検査院の独立性をも全体として保障し,「予算の執行および経済運営の経済性および合規性」を検査する機能を委託したからである(注26)。そして連邦憲法裁判所も,議会の直接の人的な民主主義的正当性から,解釈基準の意味において,議会の原則的優位が導き出されてはならないということ,また,人的正当性と並んで,制度的および機能的な民主主義的正当性もまた考慮されねばならないことを強調する(注27)。

 それゆえ,会計検査院の民主主義的正当性の欠如をもっての論証は,会計検査院によるコントロールからの政治的決定の排除を根拠づけることができないことになるであろう。

 (2)政治的責任性の欠如

 次に,政治的目標を設定する者は最終的に国民に対して政治的に責任を有しなければならないという,いわゆる「責任性原則(Verantwortlichkeitsprinzip)」から,会計検査院の政治的コントロールに批判がなされることがある(注28)。

 たとえば,国民は選挙を通じて議員の責任を問うことができ,また,政府はその議会に責任を負っている。行政職員も,その政府首脳の指示および懲戒処分に服する。このような依存関係(Abhängigkeit)の連鎖に組み込まれていない国家機関は,原則として,政治的意思形成のプロセスに参加する権限をもつことができないというのである(注29)。会計検査院には,前述のように,なるほど全く民主主義的正当性が欠けているわけではないが,そのような協働を正当化する,国民への依存関係(Rückkoppelung)が欠けているのである。

 しかし逆に,合理的決定のためには一定の距離を必要とするという側面がある(注30)ことも見逃されてはならない。たとえば,「自由な委任(Mandat)」(基本法第38条第1項)が,選挙民の意思からの一定の独立性を議員に確保しようとするように,国民との一定の距離が,議会における合理的な意思形成に寄与するのである(注31)。したがって,一方における独立性と,他方における政治的意思形成プロセスへの協働権限とは,必ずしも両立しないわけではない。むしろ,合理的な政治は,「社会における日常の諸利益や諸力の雑踏」との最低限の距離を必要とするのである(注32)。

 さらに,責任性の欠如から,政治的決定に参加できないという場合,「決定」の概念が非常に広く理解されていることが指摘されなければならない(注33)。つまり,「決定」のなかに,単なる助言的な活動も,権利と義務の拘束的な確定(狭義での決定)も包括してしまっているのである。ここでは,これらを区別することが重要な意義をもつ。すなわち,責任性原理は,単に助言的に活動するだけの国家機関の場合には,極めて制限的にしか妥当しないのである。それゆえ,命令によってではなく,論拠の説得力によって効果を及ぼすことを試みなければならない「剣なき騎士(Ritter ohne Schwert)」(注34)の活動には,このような責任性原則は直接には適用され得ないであろう(注35)。

 (3)権力分立制

 さらに,政治的決定をも会計検査院がコントロールすることに対する批判として,権力分立原則がしばしば援用される(注36)。

 従来,権力分立の原理に言及する際には,会計検査院が,三権のいずれの領域に整序されるのかということが,盛んに議論されてきた(注37)。とくにドイツの学説では,権力分立制の下で,三権のいずれかに属するという説から,第四権という説に至るまで,「およそ考えられるすべての可能性」が主張されたと評されている(注38)。そのような中,ドイツでは,1969年に基本法第114条が改正され,明文上,報告提出や助言の名宛人として,政府と議会が並立されたことから,これ以後のドイツの学説では,会計検査院を,行政府「および」立法府の「補助機関(Hilfsorgan)」とする説が有力になった(注39)。そして1985年,ドイツのいわゆる連邦会計検査院法が抜本改正を受けるが,その時の会計検査院の法的地位に関する立法者の意思も,会計検査院を,立法府と行政府の中間に存在し,両者のために活動する独立の組織と捉えている(注40)。

 このように会計検査院は,三権のいずれにも属さず,独立してそれらの間の相互的コントロールを媒介する機関としての地位をもつ。そして,諸権力間,とりわけ立法府と行政府の間の「均衡と抑制」のシステムを強化し,権力分立を実効性あるものにする任務を与えられているのである。

 このような状況の下で,権力分立の原則が,あくまで会計検査院による政治的コントロールの前に実際に立ちはだかるのかどうか,あるいは反対に時代に即して発展を続ける権力分立の理解が,そのようなコントロールをまさに要求していないかどうか(注41),が問われなければならない。

 Ⅲ 会計検査院の「政治的」コントロールの要請

 (1)議会の変遷と会計検査院

 今日の議院内閣制の下では,政府と議会の古典的な対立関係は存在しない。むしろ,政府と議会の多数派とが,政府を構成する政党によって密接に結びつけられているのである。したがって,政府のコントロールは,もはや議会の多数派には期待され得ない。議会の多数派の役割は,政府と団結を図り,政府を野党の攻撃から守ることへと移行しているのである(注42)。

 それゆえ,本来的な緊張線は,もはや政府と議会の間に存在するのではなく,一方における政府および与党と,他方における野党との間にある(注43)。それに伴って,政府と議会の対立にかかわる権力分立の伝統的な理解は,いわば「見かけだけのもの」(注44)となっている。このような情勢の下で,ドイツの「立憲君主制の時代に議会が有していた予算承認手続の意義」は失われ,責任解除手続も,政府の会派がその多数の力で,政府の財政運営の正しさを証明する手続へと変えられてしまったといわれるのである(注45)。

 しかし,一方で野党は,政府の政治的責任追及のため,会計検査院の所見,非難,鑑定あるいは勧告を取り上げることに,まさに関心を寄せている。野党は,必然的に少数派であり,多数派である与党との間に均衡は欠けている。しかし,野党の政府批判は,次期選挙での判定者としての有権者の目前で行うことができる。会計検査院の調査に支持された野党による政府の批判は,政府および政府を担う政党に対して,責任解除手続での可決の結論にもかかわらず,結果的に政治的に重要な影響をもたらし得る。それゆえここで,権力分立の新しい形態,すなわち,政府与党と野党との間の権力分立の形態が示される(注46)。権力間の「均衡と抑制」を目指す権力分立原理の本来の趣旨からすれば,この「均衡と抑制」の関係は,まさに政府と野党の間にも必要であり,ここに会計検査院の政治的コントロールの重要な意義が存在するといえる。

 (2)「Impulsgeber」(注47)としての会計検査院

 会計検査院のコントロール活動の特徴として決定的なことは,会計検査院が狭義における「決定」を行うのではない,つまり,何が行われるべきか,あるいは行われるべきでないかを法拘束的に確定するのではなくて,いわば助言的にのみ,すなわち,会計検査院の専門的意見に基づいて,相手方に説明あるいは説得を行うにすぎないということである。

 このことは,国家資源の将来の取扱いにかかる会計検査院の諸提案(予算法上の「助言」)に関して妥当するのみならず,責任解除手続のため行われる検査結果の提示に対しても妥当する(広義での「助言」)(注48)。後者の場合でも会計検査院は,何ら決定を行うわけではない。会計検査院は,国民,議会および政府に,それらが決定の発見を行うに際して参考になるよう,情報提供および提案を行うだけなのである。

 助言任務の委託は,同時にまた,会計検査院に広い評価の余地を承認していることの積極的な証拠ともなる(注49)。すなわち,助言は,助言を受ける相手方,たとえば議会,議会の委員会または担当大臣に対して,当該判断事項につき,それまで意識されなかった新たな観点からの考慮を要求し,そのことを通して新たな対応を可能にすべきものである。もし,裁判所の判決について展開した代替性審査の中に会計検査院の助言が強制されるならば,そのような助言の作用力は大いに減少してしまうであろう。一方で会計検査院に議会および政府への助言を任務として課しながら,他方で裁判所同様に政治的な言明を一切禁じるというのは矛盾にほかならない(注50)といわれるゆえんである。

 そのような作用力を有する「Impulsgeber」は,議会制民主主義の秩序においては,おそらく問題のある「異物(Fremdkörper)」(注51)であろう。しかし,命令による代わりに説得によって作用する「やっかいな助言者(lästiger Berater)」(注52)として,会計検査院が国家財政のコントロールシステムの中に組み込まれる必要性もまた大いに存在するのである。

 おわりに

 「会計検査院と政治」という問題に関する議論を行う際,論者の意識の中には絶えず裁判所,なかでも憲法裁判所の存在がうかがえる。しかし,以上のように,「会計検査院と政治」の問題は「裁判官と政治」の問題から切り離し,会計検査院を代替性評価への制限から解き放つことが重要(注53)であるように思われる。

 近時の見解は,そのような制限は少なくとも法的には命じられていないことを強調する。すなわち,繰返し述べられたように,会計検査院は,裁判所とは異なり,コントロールされる決定を自己の決定によって法的に取り替えることはしない。したがって裁判所のコントロールの自制のために述べられた根拠は,会計検査院に対しては原則として妥当しないのである。グルップ,キスカー,シュッペルト,クレップス,フォン・アルニムらによって推し進められるこのような立場によれば,「経済性」コントロールが会計検査院によって行われるか裁判所によって行われるかは,厳格に区別されなければならない。もし裁判所が「経済性」コントロールを行うならば,抑制に努めなければならないであろうが,しかし会計検査院による「経済性」コントロールに対しては原則として「積極主義」が妥当してしかるべきである。

 ただし,あくまでも会計検査院は,あらゆる言明において,もっぱら国家資源の綿密な取扱いが問題であることを明らかにしなければならない。これが会計検査院の「政治的中立性」を守る最大の砦である。とくに,目標選択の問題は,この文脈においてのみ許容されることになるであろう。

 今,財政民主主義の実現にむけて,会計検査院は「Impulsgeber」としての役割を強く求められている(注54)。なぜなら「会計検査院のコントロールをおいてほかに,権力の濫用を有効に制御するサンクションは存在しない」(注55)からである。

注:

1)伝統的な「政治的中立性」の理論をめぐる論争については,かつて若干,検討したことがある。拙稿「西ドイツにおける会計検査院の検査権限の限界に関する一考察」広島法学11巻2号(1988年)123頁以下を併せて参照して頂きたい。

2)たとえば,Heinz Günter Zavelberg, Von der Rechnungsprüfung zur Finanzkontrolle, in: HansHerbert von Arnim (Hrsg.), Finanzkontrolle im Wandel, 1989, S. 17ff.がよくまとまっていて参考になる。なお,Zavelberg氏は,ドイツ連邦会計検査院の院長を務めている。

3)この点につき,近時の代表的な書物として,Wolfgang Sigg, Die Stellung der Rechnungsöfe im politischen System der Bundesrepublik Deutschland, Schriften zum Öffentlichen Recht, Bd. 441., 1983 (S. 73)がある。なお同書は,SiggのDissertation(学位取得論文:フライブルク大学)である。

4)とくに有名なのは,(注1)の拙稿で紹介したBattisとTiemannの論争である。Battisの論拠については,Ulrich Battis, Rechnungshof und Politik, DÖV 1976, S. 721ff.を,またTiemannの論拠については,Susanne Tiemann, Nochmals: Rechnungshof und Politik, DÖV 1977, S. 240ff.を参照して頂きたい。

5)この点を明確に意識するのは,Walter Krebs, Kontrolle in staatlichen Entscheidungsprozessen, 1984, S. 202f.; v. Arnim, Wirtschaftlichkeit als Rechtsprinzip, Schrriften zum Öffentlichen Recht, Bd. 536, 1988, S. 107ff.である。なお,前者はミュンスター大学に提出されたHabilitationsschrift(教授資格)論文である。

6)立法者のコントロールに関するドイツでの議論の概略は,さしあたり,拙稿「国家財政の経済性コントロール(2)——コントロール基準としての『経済性』」大島商船高専紀要23号(1990年)121頁以下(126頁以下)を参照して頂きたい。

7)Urteil vom 19.7.1966, BVerfGE 20, 56ff. (96).

8)本稿作成にあたり,とりわけ参考にしたのは,Gunter Kisker, Rechnungshof und Politik, in: v. Arnim (Hrsg.), Finanzkontrolle im Wandel, 1989, S. 185ff. ; W. Krebs, a.a. O. (Fn. 5), S. 198ff; v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 107ff.; ders. Finanzkontrolle in der Demokratie, ders. (Hrsg.), Finanzkontrolle im Wandel, 1989, S. 39ff.; Herbert Sauer/Hans Blasius, Politik und Finanzkontrolle durch Rechnungshofe, DVB1 1985, S. 548ff.; Ernst Heuer/Hermann Dommach, Handbuch der Finanzkontrolle, Art. 114 GG, Rn. 79, Stand 1990である。

9)この問題については,前掲(注6)のほか,「同(1)——『経済性』の法的意義」「同(3)——「経済性」コントロールの効果」大島商船高専紀要23号109頁以下,133頁以下で検討したことがある。参考文献等の詳細は同論文を参照して頂きたい。

10)たとえば,Klaus Vogel, Verfassungsrechtliche Grenzen der öffentlichen Finanzkontrolle, DVB1 1970, S. 193ff. (196); Klaus Stern, Das Staatsrecht der Bundesrepublik Deutschland, Bd. II, S. 407ff. (439)が代表的な論者である。

11)Sigg, a. a. O. (Fn. 3), S. 54ff.

12)Gunnar Folke Schuppert, Die Steuerung des Verwaltungshandelns durch Haushaltsrecht und Haushaltskontrolle, VVDStRL 42, 1984, S. 147ff. (260), Klaus Grupp, Steuerung des Verwaltungshandelns durch Wirtschaftlichkeitskontrolle?, DÖV 1983, S. 661ff. (666)など参照。なお前者は1983年度のドイツ国法学者大会第二部会(テーマ:「予算法と予算コントロールによる行政活動の誘導」)における報告を収録したもの,後者は同一テーマで執筆された雑誌論文である。

13)Grupp, a. a. O. (Fn. 12), S. 666.

14)我が国同様,ドイツでも近時大きな関心を呼んでいるようである。たとえば,Zavelberg, Staatliche Rechnungsprüfung und Erfolgskontrolle. in: Peter Eichhorn/Gert von Kortzfleisch (Hrsg.), Erfolgskontrolle bei der Verausgabung öffentlicher Mittel, 1986, S.103ff.が論点をよく整理していると思われる。

15)Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 202.「目標達成のコントロール」については,Sauer/Blasius, a. a. O. (Fn. 8), S. 551f.を参照。

16)Hellstein/Wollmann, Wirksame Gesetzesevaluierung. Wo könnten praktikable Kontrollverfahren und Wirkungsanalysen bei Parlament und Rechnungshof ansetzen?, ZParl 1980, S. 547ff. (563).

17)Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 204.

18)Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 204.

19)Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 205.

20)Sauer/Blasius, a. a. O. (Fn. 8), S. 551f. ;v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 108; Wittrock, Finanzkontrolle: Zu spät, zu dürftig, zu politisch?, ZParl 1982, S. 219ff. (223)など参照。

21)バーデン=ヴュルテンベルク上級行政裁判所で実際に争われた事例である。同裁判所は,320万マルクという多額の支出が,望まれる利益に対して均衡を逸するとして,非経済的なものとした。Vgl. VB1BW 1983, S. 313f.

22)Bemerkungen 1978, BT-Drs. 9/38, S. 4

23)たとえばTiemann, a. a. O., S. 242.

24)Vgl. Böckenförde, Demokratie als Verfassungsprinzip, in: Isensee/Kirchhof (Hrsg.), Handbuch des Staatsrechts, Bd. I, 1987, §22, Rn. 11ff.

25)Vgl. v. Arnim, a. a. O. (Fn. 8), S. 43.

26)Vgl. v. Arnim, a. a. O. (Fn. 8), S. 43.

27)BVerfGE 49, S. 89ff. (125ff.).

28)たとえば,Gotthard Brunner, Möglichkeiten und Grenzen der öffentlichen Finanzkontrolle, in: Verfassung, Verwaltung, Finanzkontrolle, Festschrift für Hans Schäfer, 1975, S. 169ff. (179).

29)Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 209.

30)Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 211.

31)Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 211.

32)Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 211; v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 115ff.

33)Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 212.

34)法的拘束力がないことの揶揄として用いられる言葉であるが,法的拘束力がないことこそが,逆に会計検査院の強みであるという見方も存在する。

35)Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 211; Grupp, a. a. O. (Fn. 12), S. 663f.; Schuppert, a. a. O (Fn. 12), S. 261; Krebs, a. a. O. (Fn. 5), S. 200f.など,このように考える論者は多い。

36)Hartwig Schlegelberger, Aufgabe und Stellung der Rechnungshofes in unserem Finanzkontrollsystem heute und morgen, in: Böning/v. Mutius/Schlegelberger (Hrsg.), Finanzkontrolle im föderativen Staat, 1982, S. 4ff. (13). Sauer/Blasius, a. a. O., S. 553f.も,この批判を重視する。

37)この議論の様子については,さしあたり村上武則=石森「西ドイツにおける連邦会計検査院の法的地位とその任務」広島法学10巻4号(1987年)97頁以下(113頁以下)を参照して頂きたい。

38)Vgl. Sauer/Blasius, a. a. O. (Fn. 8), S. 553.それぞれの参考文献については,Stern, a. a. O. (Fn. 10), S. 444ff.が詳しい。

39)我が国の会計検査院の法的地位について,会計検査院の甲斐素直氏による詳細な分析がある。甲斐氏は,会計検査院を権力分立制の下で説明することは,もはや不可能とされた上で,国会,内閣,そして場合により裁判所に対する補助機関(ただし従属機関ではない)と理解される。参照,甲斐素直「国民主権原理と会計検査院の憲法上の地位(上)」「同(下)」自治研究61巻11号(1985年)77頁以下,同12号50頁以下(56頁以下)。

40)BT-Drs. 10/3323, S. 10.なお同法成立の背景,経過および内容については,Peter Eickenboom/Ernst Heuer, Das neue Bundesrechnungshofgesetz, DÖV 1985, S. 997ff. (1000)が便宜である。

41)Vgl. v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S112.

42)v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 114.

43)v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 114; Sigg, a. a. O. (Fn. 8), S. 20; Stern, Staatsrecht der Bundesrepublik Deutschland, Bd. I, 2. Aufl., 1984, §23.

44)v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 115.

45)v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 115.

46)Vgl. v. Arnim, a. a. O. (Fn. 5), S. 114f.

47)Kiskreによって用いられているこの言葉は,あえて日本語にするとすれば,「衝撃装置」の類であると思われる。ただし,政治的な煽動(Agitation)」まで許されるわけではない。Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 214f.

48)Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 212.

49)Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 214.

50)Krebs, a. a. O. (Fn. 5), S. 202; Andreas Greifeld, Der Rechnungshof als Wirtschaftlichkeitsprüfer, 1981, S. 74.

51)Kisker, a. a. O. (Fn. 5), S. 214f.

52)Kisker, a. a. O. (Fn. 5), S. 215.

53)Vgl. Kisker, a. a. O. (Fn. 5), S. 215.

54)1992年3月に一橋大学で開催された日本財政法学会第10回大会(テーマ:「決算制度」)において,筆者も問題提起の機会を与えられた。その際,会計検査院の甲斐素直氏ならびに吉江勉氏より個人的に多大なご教示を頂いた。この場をお借りし,お礼を申し上げたい。筆者の全くの能力不足から,それを未だ十分に生かしきれているとはいえないが,拙稿「決算制度と会計検査院——民主主義的財政コントロールの実行化に向けて」日本財政法学会論『決算制度(仮題)』財政法叢書⑨(学陽書房,1993年4月発行予定)を併せて参照して頂ければ幸いである。

55)Kisker, a. a. O. (Fn. 8), S. 216.なお,我が国では,平成2年度の決算検査報告から「特定検査対象に関する検査状況」の項目を新設し,現今的なテーマに関し,検査の結果が述べられている。さらに従来の「特記事項」などと併せ,政治的・政策的決定への関与をも通じて,国民の関心事に専門的立場から情報を提供することで,結果的に多大な政治的効果が引き起こされ,ひいては民主主義的な財政コントロールの活性化にも大きく寄与し得るものと思われる。

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