第3号 巻頭言

日本を豊かにするために
目 良 浩 一

目 良 浩 一
(東京国際大学教授)

 1933年生まれ。東京大学工学部建築学科卒,ハーバード大学でPh.Dを取得。ハーバード大学経済学部助教授,国際復興開発銀行(世界銀行)エコノミスト,筑波大学教授などを歴任。86年から現職。応用地域科学研究会及び環太平洋都市開発協議会会長。

 主な著書は「「東京問題」の解決策」「所得分配と地域開発」「人口の定住化と公共投資の地域間配分策−日本の経験」など。

Ⅰ 実は貧困な日本

 戦後の飛躍的な経済の成長によって,日本は今や一人当り国民総生産においては米国を抜き,OECD加盟国の中ではスイスに次ぐ二番目の地位を占める豊かな国になったと多くの人は思っているし,経済統計的には正しいのであるが,実際には日本の人たちの生活は他国と比較するとかなり貧弱であることを先ず指摘したい。

 例えば,東京国際大学ではアメリカの大学の学生に日本の歴史や経済などを教育するプログラムがあり,学生を日本の家庭に滞在させるホームステイを行なっているが,彼等が体験している日本の家庭生活の水準は,彼等の本国に較べて決して高度のものではない。第一,家の中が完全に暖冷房されていない。隙間風が入って,室内温度は戸外と同様になる。特定の部屋は暖房されていても,トイレは暖房なしである。冬の朝は,蒲団の外へ出るチャレンジから出発しなくてはならない。

 食事にしても,物価が高いために欲しいものを十分に食べるわけには行かない。物価差の典型的な例は,アメリカで製造された354ミリ・リットルの太ったコカ・コーラの缶が,日本で製造された250ミリ・リットルの細い缶と同じ値段で売られていることである。殆んど水分ばかりのこのような製品を輸送費をかけて輸入しても,ミリ・リットル当りの価格は安くなる程にアメリカでは価格が安いのである。

 日本が誇る都市内の交通システムにしても同様である。日本の大都市では車無しで生活できることは事実である。バスと電車などで大抵の所へは行ける。しかし,電車内の超混雑,電車に乗降したり,乗換する際の階段の昇り降りは非常に苛酷なもので,体力のある若年層にはさして苦痛にならないかも知れないが,身障者や老年層には相当にこたえるものである。多くの人々にとっても都市内交通は決して楽なものではない。電車をやめて,自動車を選択すれば,混雑のために果していつ目的地に到達できるかわからないのである。交通サービスの質は極めて低いと言わざるを得ない。

 日本が経済大国の義務として行なっている経済開発協力の例から考えてみよう。国際協力事業団から依頼されて,大学教授やコンサルタントの会社の人が調査団を構成して,専門家としてタイやインドネシアなどを訪問する。それぞれの専門的知識を生かして,ある特定の問題解決のための調査報告書を作成するために数週間滞在する。その調査団に,開発途上国側の政府省庁の部長・課長などが対応するのだが,彼らはしばしば私邸に調査団員などを招いてくれる。彼らの邸宅はゆったりしたものであることが多い。彼らが日本を訪れた時には,日本側はあまりにも私邸が貧弱であるために,私邸に招くことをためらい,レストラン等に招いてお茶を濁すことが多い。どちらの国の方が豊かなのかと考えさせられることがある。

 日本の豊かさが実感として感じられるのは,海外に出た時だけではなかろうか。強い円を持って海外に出れば,一流のホテルに泊ったり,高級品を購入することがそう困難ではない。そこで人々は,日本は経済大国であるという幻想に捉われるのだが,実は国内では貧しい生活をしているのだという事実を認識できなくなるのである。ほんの少数の日本からの輸出品生産における生産性の高さが円の為替レートを異常に高くし,虚偽の豊かさを作っているのである。人々の生活水準においては,決して日本の水準は多くの先進国に較べて優れているとは言えないのである(注1)。

Ⅱ 国益不在の日本の政府
   ───対外関係について

 このような貧困から日本を脱却させることが出来ない一つの大きな要因は政治の貧困である。政治家は私利私欲を肥やすことに終始し,中央省庁は省益・庁益の追求に明け暮れている。一般人の利益を代表して,行政を改革しようとする人は政府内部には殆んど見られない。前中曽根首相の指導の下に断行されたいわゆる「行革」はその中における偉大な例外であったが,省益・庁益を守る人々の圧力の下に所期の目的を十分に達成することが出来なかった。終戦直後から日本の復興に指針を与え,経済発展の原動力となった献身的で有能な官吏は,もうすでに個人的又は集団的利益を追求する役人に取って替られてしまっている。行政は行政官の権利の拡大と責任の回避の場となっている。

 今回のイラクによるクウェート侵攻によって発生した湾岸危機程に,日本政府の外交及び危機管理能力の不在を明示した例はない。米国ブッシュ大統領からの説得によって,政府は事の重要性を認識し,財政的協力を約束するが,クウェートなどで捕われた日本人の人質に関しては,12月初旬の全員解放直前迄,外務省は実質的な動きをしなかった。解放のための実質的動きをしていた西欧諸国の政府とは大きな差が露呈した。米国政府に催促されて用意された「平和協力隊法案」も,米国に協力している実績を作る為の法案提出と見られても弁明できない程,準備不足のものであった。どの省も庁も,湾岸危機を本当に解決するには何が必要で,国家として何を実行しなければならないかを真剣に考え,対策を樹て,実行しようとする熱意がなかった。単に外交上必要なジェスチャーを示したに過ぎない。

 政府開発援助(ODA)についても同様である。日本のODAの目的は,他のOECD諸国に対して恥ずかしくないような統計数字を作成することにあると言っても間違いではなかろう(注2)。ODAの金額の対GNP比率とか,贈与比率を高めることに最大の努力が払われ,それらの金額がどのように使われ,被援助国の人々の生活がどのように向上するのか,又は日本人の海外におけるイメージがどのように改善されるか,又はそれによって日本人の安全がどのように保全されるかなどの重要な問題は殆んど顧り見られないでいる。

 日本のODAは要請ベースであると言われている。若し,日本側で案件を提案するならば,それだけ提案者側である日本政府の責任が重くなる。相手から要請を受けてそれに対応すれば,それだけ責任が軽くなる。責任回避の方法である。他のOECD諸国は積極的に専門家を派遣して,案件の発掘を行っている。援助を与える国の専門家の方が援助を受ける国の専門家よりも,専門的能力において一般に優れていることは事実であろうから,この方法によって発堀される案件の方が,援助を受ける国が要請して来る案件よりも優れた案件である可能性が高い。このような積極的方法を採用しない日本のODA供与の方法は,明らかに援助効果をみすみす犠牲にしているわけである。すなわち,援助国に対しても被援助国に対しても資源を浪費することを黙認していると批判されても仕方がない。

 この事を裏書きしているのが,援助実施機関の驚くべき程の援助の質に対する無関心さである。一度案件の採択が決定されれば,それはただ完了されることだけが重要なのである。どのように効率的に実施されるか,援助を受ける国からどのように評価されるかは問題とならない。予算を計画通りに使用し,成果としての調査報告書なり公共施設の建設なりが完成すれば十分なのである。特に調査報告書の場合には,内容に天地の差が出ることがある。しかし,通常は形式が揃えば内容は殆んど問題とされない。

 現在これらの問題については対策が樹てられ,実施される方向にある。例えば,要請主義に対しては,対話主義の方向が打ち出されている。しかし,それは徐々に導入される予定であるに過ぎない。又,質の評価については,第三者による案件の事後評価が導入されようとしている。しかし,事後評価はよく行なわれるように,プロジェクト終了後10年程経ってから行なわれたのでは意味がない。それは援助の実施過程において担当者が常時行なわないとプロジェクトの質の向上につながらない。

 また,日本の援助は国際機関に依存し過ぎる傾向がある。特に近年では援助金額増大のために世界銀行に巨額の金額を供託している。確かに,金額の増大のためにはそれは賢明な方法である。世銀は優秀なスタッフを持った,開発援助の分野では理念的にも,実務的にもリーダーである。しかし,世銀と言えども欠陥がないわけではない。特に日本の援助専門家の中には,説得力をもって世銀の政策を批判する人が多い。世銀に援助資金の消化を依託する事の最大の問題点は,実は日本の援助政策の目標が達成できないことである。まず,世銀の援助理念が日本国の援助理念と全く同一である筈がない。世銀による資金の供与又は融資は,世銀のスタイルをもってなされるので,日本の意図はあまり反映されない。次に,世銀による援助の実施の際には,世銀の名の下に実施されるので,被援助国には日本がそれに貢献している事が伝わらない。援助の目的は被援助国の発展に貢献することで,援助供与国の利害を考えるべきではないとする純粋派の考えもあるが,納税者の立場からすると援助資金を日本が多くの国に愛され,少しでも日本人の安全が保障されるように使ってもらいたいと思うのである。

 以上のように開発援助においても関係省庁や諸機関は,それぞれが直面している当座の目標を達成することのみにとらわれて,国民の本当の利益を無視して行動していると言えよう。

Ⅲ 国益不在の日本の政府
   ───国内行政について

 国内の行政においてこのような問題がないかと言えば,大間違いである。特に,内政に関する省庁はそれが監督する業界との関係が強いだけに,腐敗の程度も強烈である。すべての業界で,多くの企業が省庁からの天下りを役員などに採用して官庁との連絡を良くしている事は周知の事実である。但し,それは連絡を良くするだけには止まらず,省庁が国民を忘れて,業界のために奉仕しながら自分達の利益を拡大してゆく手段にもなっているのである。

 例えば運輸行政を考えてみよう。航空,鉄道,バス,タクシーなどすべての運輸サービス料金は認可制になっている。自由競争をさせないのは,旅客の安全性の確保や地域独占の弊害から消費者を保護するなどの大義名分はあるものの,実際には既存業者の利益の保護のために行なわれていることは明白である。同じ機種を用いて,同じ燃料を用いて行なう国内の航空運賃が,需要密度の高い日本において,米国よりもかなり高い事は運輸省の航空業界の保護を考えなくては考えられない。1978年以来,価格と路線選択を由由化した米国においては,低運賃が定着しているが,安全性が阻害された証拠はない。むしろ,向上したと言われている。機内サービスにおいても,自由競争の米国では日本国内より遥かに優れたものが提供されている。

 空港整備にしても同様に消費者の利益は全く無視されている。成田空港の建設から,その運営の過程を見ると,運輸行政の無責任振りが明白になる。まず第一に,立地の選択がある。非常に不便な場所であることは誰の目にも,選択する前から明らかであった。次に,土地収用の困難があった。これ程の国家的プロジェクトの土地を政府が収用できない事実は,日本に国民のための政府が存在しない事を証明している。少数の利害関係者の権利への対応に終始して,多くの利用者の利益が無視されたのである。

 開港された時には,空港に直結する鉄道は完成していなかったし,未だに完成していない。京成スカイライナーで行けば,空港の近くでバスに乗り換えなければならないのである。これこそ消費者不在の行政である。

 現在では成田空港はしばしば地下鉄内のような混雑が起こる。また,空港に近づく車は,数百メートル手前で動きがとれぬようになり,乗り遅れの恐れがある利用者は,そこでバスや車から降りて,大きな荷物を抱えて空港ターミナルまで走るのである。このような非文化的な光景は開発途上国を含めて,筆者は他では見た事がないのである。このような劣悪な国際空港の存在は,利用者に不便をかけるだけでなく,日本の国際化にとっても大きな障害になっている。若し,成田空港が通常の国際空港のように便利であれば,日本の国際化はもっと早く進行していたであろう。より多くの人々が海外を訪れていたであろうし,より多くの外国人が日本を訪問していたであろう。その結果として,日米構造協議も回避できたかも知れない。

 最近の土地税制改革の議論においても,省益と形式的対策の実施を中心として展開されている。まず第一に,大蔵省はその税収の増大を目的として,従来地方税であった土地保有税に新しく国税を導入する提案をした。更に,譲渡及び相続の段階でも税を強化しようとして,各省庁等に働きかけた。このような増税の結果,国民の生活がどうなるかについては全く検討された痕跡がない。

 一方,国土庁や建設省は,この4年来の地価高騰によってその無策を批判されているので,この機会に何らかの対策を導入する必要性を感じている。その意味で土地税制の改革に熱意を示している。しかしながら,建設関連の業界からは土地税の強化に対する反対が強く,そのために実質的効果はあまりない名目的な税の強化を望む傾向がある。このような省益の混合の結果として出て来たのが,去る12月6日に発表された自民党の土地税制改革大綱である。大蔵省の要求が通って保有・譲渡・相続の各局面で税が強化されているが,導入予定の国税としての新土地保有税は,税率においても,また課税対象者においても極めて限定されたものとなり,「骨抜き」になったと言われている。それぞれの省益が貫かれたのである。

 しかし,筆者を含めて数人の経済学者は,この改革によって日本の土地問題が解決の方向に向かうとは思っていない。新土地保有税は極めて少数の大企業のみを対象とするので,土地の供給にはつながらず,譲渡所得税の強化による売り惜しみが増大し,結果としては土地供給の不足から来る高地価が維持されるであろう。省益に走り,国益不在の政策の典型例である。

 しかも,この政策は「出る釘を打つ」性格を持っている点でも甚だしく好ましくない。すべての段階で課税を強化することは資産所有の平等化を計る意味で好ましいかも知れないが,自由市場経済の中での成功者を罰する意味で,悪平等の政策である。創意と工夫をもって財をなす事を阻害し,すべての人々を最低の水準におし止めようとするもので,このような政策があるからこそ,日本は豊かになれないのである。

Ⅳ 解決の方向

 このような省益と成功者の懲罰を柱とする日本の行政を改革して,国民がより豊かな生活をすることが出来るようにするにはどうすればよいであろうか。これは容易なことではない。大きな日本人の意識改革が必要なのである。特に,悪平等の観念から脱却する意識改革が必要である。戦後しばらくの間でかなりの人が生存自体のために苦労していた時期には,それは好ましくもなく,実現もできなかったであろうが,現在の日本では実現も可能であり,豊かさの獲得のためには不可欠のものである。

 まず第一には,個人が個人としての自由と権利を十分に自覚することである。個人は集団の犠牲になる必要はなく,その能力を発揮する環境が与えられるべきである。この点においては文部行政は大きく変革されなければならない。国家による教科書の検定自体が学習の自由を阻害するものである。更に,学習を年限で規定するような悪平等を制度化してしまっている。この点については最近ようやく自由化の方針が打ち出されたが,完全な実現までにはかなりの障害があろう。

 職場においても,個人はその貢献度に応じて報酬を受けるべきである。勤務年数や学歴で決まるのではなく,個人の実績が評価されるべきなのである。プロ野球界を始めとして,このような制度を採用している企業数は増大の傾向にあるが,しかしそれらはまだ限られている。これを一般化する必要がある。

 第二に,減点主義から得点主義への移行がある。民間企業においては,得点を計測し易いために,ある程度得点主義が採用されているが,官公庁では減点主義が支配している。省庁の職員は,大過なく勤めあげる事を至上の目的として勤務しているように思われる。勿論,省益への貢献などをも目的とするが,減点回避への努力の方が得点への努力よりも大きい。その結果として,実質的成果はなくとも名目的成果があれば満足することになる。

 得点主義の採用のためには,減点主義の場合以上の厳格な人事評価制度がなくてはならない。このような制度に慣れていない日本の人には,かなりの抵抗があるかも知れないが,より一層の飛躍のためには避けて通れない道である。

 上記のような考え方の改革は,人間の根本的なものに関するだけに,直ちに実現するのは容易なことではない。また,どのようにすれば実現できるのかも解りにくい。そこで,下記に直ちに実現できる二つの具体的な提案を示そう。

Ⅴ 公務員人事制度の改革

 現在の制度では上級職の公務員は人事院を通して選考されるが,各省庁が最終的に選考して採用する。どの省庁によって採用されたかによって,その個人の生涯の帰属が決定する。一旦,農林水産省に採用されれば,途中短期間出向することはあっても,省の人間として拘束され,省の為に献身的に働くのがその個人にとっても最善の道となる。制度上,省益が追求される仕組みになっているのである。

 この問題は個人を特定の省庁に帰属させてしまうことから発生する。特定の省庁の業務に専念することは,その業務内容を熟知する点では意味があるように思えるが,すべての事務官は同一省庁内で二年毎位に殆んど全く関係のない部局に所属を移転させられるのであるから,省庁間で配属の移転をすれば職員の業務効率が落ちるとは言えない。

 そうすれば,先ず第一に考えられる提案は職員の採用は人事院が行ない,省庁に派遣する事である。そして,各職員は特定省庁にある期間以上連続して勤務してはならないという規則を定めておく。このようにすれば,特定職員の特定の省庁への帰属意識は希薄になり,個人は省益に走るよりも,個人のより本質的な実績を上げるようになるであろう。この際には,勿論人事院において各職員の業績評価を厳密に実施しておく必要がある。

 更に人事に関してのもう一つの提案は,各省庁の課長以上の管理職者を大臣が任命するポリティカル・アポイントメントとすることである。任命される人は公務員上級職採用者に限らず,すべての有能な人から選ばれて良い。人事院によって行われる人事評価に従って,若い有能な人が重要な職に登用されることもあるであろう。

 このように省庁の人事を流動的にすることによって二つのことが得られる。第一は職員が省益にあまり捉われずに,より大きな国益のために勤務できるようになること。第二には,より適した人材を各職につけることによって,業務のより効率的遂行が可能になることである。勿論,このような制度が定着する迄には,各種の人間関係の摩擦があるであろう。しかし,このような障害を乗り越えなければ,本格的な改革はできない。

Ⅵ 行政資料の公開制度

 日本では「お上」が決定して,その理由を一般に説明しなくても良い制度になっている。そのために,日本は正論が必要でない社会である。すべての分野において,コネのある人は政府の許認可を受け易いが,そうでない人には冷酷である。したがって,人々の努力は親密な人間関係の形成に向けられ,無駄な虚礼に多くの資源が使われる。このような制度を改め,規則が明快に運用されるようにすれば,人々はより生産的な業務に集中できるようになる。

 そのために必要な一つの手段が行政資料の公開である。筆者は最近,法務省に月別土地取引の件数を調べに行った。担当者は,それをあたかも極秘資料であるかのような扱いをして,容易には公開してくれなかった。このような全く私秘権にもふれない資料をどうして堂々と公開できないか理解に苦しむのである。

 公開が必要なのは,このようなマクロな統計数字に限らない。もっと個別的な許認可の裁定や,公共事業の工事発注などについても資料を公開するべきである。資料公開を義務づけることによって,裁定の公平性が保たれ,正論が通ることが可能になる。

 行政資料の公開は大きな意味を持つ。それは今まで総務庁や会計検査院などに任せていた行政の監理を国民全体ですることを意味する。すべての行政的判断は,誰によってでもチャレンジできなければならない。そうすれば,行政官の恣意的な判断は許されなくなる。このようにして初めて,国民の間で真剣な行政目的や手段についての議論が起こって来る。今までの雰囲気的行政から,理知的行政への転化が期待できるのである。

Ⅶ 結 論

 経済大国になった筈の日本国もよく観察して見ると,国民の生活は貧しく,決して世界有数の豊かな国であるとは言えない。ある特定輸出品の生産性の高さと,今後の予想される生産性の向上が円の為替レートを高め,日本に統計上の豊かさをもたらしている。海外に出れば,その豊かさは正真正銘であるが,国内における生活の質はこの20年間あまり変っていない。

 このような貧しさから脱却できない大きな原因が政治と行政の貧困にある。省益ばかりを狙った国益不在の行政,他が向上するのを阻む脚の引っぱりあい,資料公開をせずに恣意的裁量が可能な行政制度などが,日本の本格的な豊かさへの改革を阻んでいる。

 ここでは,特に公務員の人事制度と行政資料の公開について根本的な改革が必要であることを述べたが,他にも様々な改革が必要である。しかし,この二点から着手することによって,更に広範囲な改革に繋がって行くことができよう。真の豊かさを獲得するには,それらを通過してゆかなければならない。

[注]

1) 日本人の考えが他国の人々にどのように受け入れられているかについては,拙著「世界から見た日本──国際交流の場で」 計画行政 第17号,1986年参照のこと。

2) この点についてのより詳細な議論については,拙著「ODAは『先進国クラブへの参加費』ではない」エコノミックス・ツデイ,1988年夏号参照のこと。

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