第2号

西ドイツの会計検査院と法治国家
村上 武則  石森 久広

(Der Rechnungshof und das Rechtsstaatsprinzip in der Bundesrepublik Deutschland)

村上 武則
(広島大学教授)

石森 久広
(大島商船高等専門学校講師)

 はじめに

 資源はすべて有限である。コントロールしなければ枯渇してゆくであろう。国家の予算も同じである。財政支出も適正なコントロールがなければ,国家財政は破綻するに違いない。そのような意味でも,会計検査院の果たす財政コントロール(注1)の意義は極めて大きい。しかしその財政コントロールはどのようにして行われるのであろうか。恣意的に行われては到底適正なコントロールにはならない。やはり財政コントロールも,他の国家活動と同じく,法治国家原則に服さなければならないと思われる。ところで,法治国家原則は近代憲法の最も重要な原則の一つである。けれども,法治国家原則のありかたは,時代により,また国家体制の違いによっても差異がある。本稿では,歴史的にみて我が国の会計検査院に多大の影響を与え,かつ法治国家原則については非常に厳密に議論しており,しかも現在東西の統一問題で世界中が注目しているところの,西ドイツに着目して,その連邦会計検査院の財政コントロール活動と法治国家原則の関係について検討してみたい。

 ところで会計検査院の行う財政コントロール活動に関し,従来我が国においては,財政民主主義あるいは国民主権原理とのかかわりについては,熱心に議論されてきているところであるが(注2),法治国家原則とのかかわりについては,意外にもあまり論議されていないように思われる。そこで本稿は,まず西ドイツにおける連邦会計検査院と法治国家原則につき検討するが,本稿の検討が,我が国の会計検査院と法治国家の関係を検討する際に,少しでも参考になることができたら望外の幸せである。

注

 第1章 法治国家における会計検査院の財政コントロール機能

 1 法治国家原則について

 法治国家原則とは,周知のように,国家権力から国民の権利利益を保護しようとする原則である。西ドイツの憲法としての基本法は,明白に法治国家規定を設けている(20条2項および3項,28条1項1文)。ところで,法治国家原則の内容としては,大体一致して,(a)権力分立の原則,(b)法律の留保の原則,(c)法的拘束・法的安定性の原則,(d)正義と自由の保障,(e)裁判所による権利保護の保障の原則が挙げられている(注1)。なおまた,(c)ないし(d)の中に含められるものとして,(f)適正手続の原則や聴聞を受ける権利,および(g)比例原則・過剰性禁止原則あるいは信頼保護の原則も法治国家の重要な原則である。

 さて,国家財政の運営の分野における最高の財政コントロール機関としての会計検査院も,当然ながら,法治国家原則を守らなければならないのである。しかし,西ドイツの基本法は,法治国家原則ばかりでなく,民主主義的国家原則や社会国家原則についても規定している。したがって,法治国家は,民主的法治国家および社会的法治国家にならなければならないのである。それゆえ,法治国家における会計検査院による財政コントロールの意義についても,単に法治国家の観点からだけでなく,民主的法治国家および社会的法治国家の観点との関連において検討されなければならないと思われる(注2)。

 2 民主的法治国家における会計検査院の財政コントロール

 (1) 民主主義国家原則による財政コントロールと法治国家原則による財政コントロールの共通性

 憲法は国民主権を採用しているゆえ,国家の統治は国民の同意あるいは信託のもとに行われなければならない。それゆえ,財政コントロールは,国民の利益のために,国家活動を監視するという役割を負うものである。この意味においては,連邦会計検査院の経済性審査や助言的活動は非常に大きな意義を有しているといえよう(注3)。他方,国家行政も国民の信託の下で行われなければならないので,国家行政は共同体の客観化された意思を具現化する法律を尊重しなければならない。それゆえ,「法律の留保」(基本法19条1項)と「法律の優先」(基本法20条3項)の観点で会計検査院が行う法適合性審査も(注4),国民の利益にとり極めて重要である。以上のように,国民の利益のためという点において,民主主義原則と法治国家原則は密接に関係しているといえるのである(注5)。

 (2) 民主主義国家原則による財政コントロールと法治国家原則による財政コントロールの独自性

 他方,法治国家原則は,国家権力の行使の抑制という観点をも含むものである。ところで,民主主義原則ないし議会主義による財政コントロール,すなわち政治的コントロールは,多数決原理で決定されるものである。それは,その都度式のアド・ホック(ad hoc)な政治的価値観や政治的利害でもって行われる。その場合,それを批判するのは少数党ないし野党である。しかし,このような議会による財政コントロールは,いくらそれが繰り返し行われても,コントロールに関する体系的な原理を構築してゆくことはできず,せいぜい政治の世界の結果が集積されるにすぎない。それでもっては,有効に権力を抑制できることにはならないといえよう。

 そのため,なにか一貫した客観的観点による財政コントロールの手段が必要となる。そこで提起されるのが,法的視点による権力抑制の手段である。さて,法は憲法を頂点にして,体系的に構築されている。この憲法を頂点にした法によるコントロール,すなわち法治国家原則によるコントロールの観点が,財政コントロールの不可欠の手段にならなければならないのである(注6)。

 以上のような意味において,会計検査院が法適合性基準でもって行う検査活動,すなわち法治国家原則の観点で行う財政コントロールは,極めて大きな意義をもつものといえよう。

 3 社会的法治国家における会計検査院の財政コントロールの地位

次に,西ドイツは社会的法治国家である。法治国家は国民の権利利益を国家から守ろうとする原理に立脚するのに反し,社会国家は,社会的弱者をも保護したり,あるいは配分的正義を志向する国家である。それゆえ社会国家は実質的正義を実現しようとするものである(注7)。それゆえ,財政コントロールも,法適合性審査として,この配分的正義・実質的正義の原理をも適用しなければならないのである。ただ,西ドイツにおいては,社会国家原則の実現は,立法者に委ねられると解されているので,その場合には,会計検査院はただ間接的で副次的な審査権を有するのみとされる(注8)。しかし,チーマンによれば,たとえそうだとしても,あらゆる行政が,経済性原則と同様,社会国家原則をも尊重しなければならないから(注9),社会国家原則が財政コントロールから奪い去られるというようなことはないとされている。ただし,社会国家的活動のコントロールは,予算法上の諸原則によるコントロールとは異なる面をもつとされる(注10)。なぜなら,西ドイツには,法律から自由な給付行政という観念があり,そこにおいてのみ社会国家的な要請の直接の執行が行政に任されるとされるので(注11),社会国家原則によるコントロールは,予算法上の他の諸原則とは異なる性質をもつとされるのである。

注

 第2章 財政コントロールの法治国家的実現手段

 1 一般委託(Generalauftrag)

 (1) 総説

 以上のように,会計検査院は,民主的および社会的法治国家において中心的な地位を承認され,とりわけ公的財政運営の領域での違法な行政活動を永続的に阻止するという法治国家的任務を課せられている。このような任務の実現のために,基本法114条2項は,一般委託という形で,連邦会計検査院に対して,包括的に,連邦のすべての予算執行および経済運営の検査権限を委ねている(注1)。ただし,この一般委託の範囲は,あくまで国家の経済活動の領域に制限されなければならず,また,国家の財政手段の投資の額およびその重要性によって,検査の範囲が正当化されなければならない(注2)。この点,たとえば,連邦予算法104条は,検査につき同意のある私企業のもとでのみ検査を認めたり,あるいは同意がなくても連邦の財政資金またはその影響が一定程度を越えている場合にのみ検査を認めるなどして,連邦会計検査院の検査の及ぶ範囲を制限している。

 (2) 基本権的自由に基づく制限

 会計検査院への一般委託は,他方,法治国家原則の最も重要な実体的要素である個人の基本権の保障のためにも制約を被らなければならない(注3)。なぜなら,一つの国家社会は,その国民の基本権が保障されて初めて,実質的意味における法治国家の性格が賦与されるからである(注4)。それゆえ,財政コントロール機能もまた,単に「法律国家(Gesetzesstaat)」の要素だけではなく,とりわけ「正義の国家(Gerechtigkeitsstaat)」の要素をも考慮に入れなければならない(注5)。つまり,財政コントロールは,法治国家的な形式的原則の実現のみならず,個人の基本権の保障に基づく実質的正義の実現にも寄与しなければならないのである(注6)。

 このように,基本権的な自由領域を考慮することによって,財政コントロールは,私企業に関しても,また,たとえば研究活動や放送事業に関しても制限を受けることがありうる(注7)。さらに,国家の機関担当者(Organwalter)の個人的な法的地位および彼らの基本権的利益も,財政コントロールに限界を設定すると考えられうる(注8)。なるほど財政コントロール自体は,「単に」確定を行うにすぎず,直接に法拘束的な命令を発しない限りで,個人の権利の侵害を惹き起こし得ない(注9)。しかし,検査確定または評価が,個人の名誉侵害的または業務侵害的内容をもつならば,場合によっては,関係私人または公務員の権利領域にも関わり得るといえるであろう(注10)。

 とはいえ,一方での個人の自由権および財産権または名誉の地位の潜在的かつ間接的な侵害,他方での公的資金の投資の重要性を合わせ考えれば,双方の要素の相互的な制限が要請される(注11)。従って,たとえば,公的関心が予算法上の規律に基づく財政コントロールを緊急に必要とするような場合には,原則として個人の基本権は,ただその限りで退かなければならないであろう(注12)。ただし,その際,とくに,比例性原則に基づき,私人の基本権的利益と,公的コントロールの必要性との関係が比較衡量されねばならないであろう(注13)。

 2 無欠缺性(Lückenlosigkeit)

 (1) 無欠缺性原則の法治国家的意義

 基本法114条2項は,前述の一般委託の趣旨を実現し具体化するために,連邦会計検査院に対して,経済性および合規性基準に基づく欠缺なき検査権限を保障している(注14)。この会計検査の無欠缺性の原則もまた,基本法の法治国家原則の実現に貢献するものである(注15)。まず,無欠缺性原則は,国家の財政運営にかかる行為の測定可能性および予測可能性の増大,つまり,法治国家の本質的要素である法的安定性(Rechtssicherheit)の原則に寄与する(注16)。さらに,無欠缺性原則によれば,行政活動は,法治国家原則としての信頼保護(Vertrauensschutz)の原則,とりわけ過剰性禁止および比例性原則に服さなければならないのである(注17)。この過剰性禁止および比例性原則は,まさに連邦会計検査院の法適合性および経済性の検査の対象になるものである(注18)。

 ところで,公的財政運営の領域における連邦会計検査院の全包括的なコントロール権限は,法治国家を危胎化させるおそれのある,いわゆる裁量決定に関わる(注19)。もし連邦会計検査院の経済性検査が,経済性および節約性という不確定法概念に基づいて行われるならば,その限りで,裁判所における「裁量」審査の問題と同様,「裁量」検査ではなく,単にこの概念の解釈に際しての判断余地の遵守のコントロールとなる(注20)。しかし,経済性および節約性が手続的な概念でもあり,目的実現に対する最も適切な手段に関する選択裁量と結び付けられるならば,その限りで経済性検査も,行政機関の裁量領域へ入り込むことを許される(注21)。実際,会計検査院が行政の裁量に関して経済性基準でどこまで検査できるかについては,実務家を含めて学説でかなりの争いが見られるが(注22),このような裁量に関わる検査は,事物適合的な裁量行使の点で,並びに,財政コントロールに課された秩序づけられた公的財政運営の保障という民主的および法治国家的機能に関連して,非常に重要な意義をもつものであろう(注23)。

 (2) 政党制民主主義によるコントロールの欠缺の充填

 無欠缺性原則に基づく財政コントロールは,すでに存在している欠缺を充填する機能をも果たす(注24)。すなわち,現代の間接的な政党制民主主義の下では,議会の多数派が政府を担うため,政府の誤りに関して議会が詳細な討論を行うことは事実上期待できない(注25)。従って,議会による政府の活動の法適合性に関する効果的なコントロールは,もはや完全には保障されず(注26),ここに一つの欠缺が生じる。これに対して,会計検査院による財政コントロールは,議会コントロールの起爆材(Initialzündung)としての特別な欠缺充填的機能を発揮する。すなわち,会計検査院は,法治国家的および民主的に必要な野党および世論によるコントロールを可能にするため,政府の政策の批判的考察の契機となる客観的な検査確定を提供する。そのことによって,議会および政府は,公的財政行動のコントロールされざる自由領域を生じさせたり,会計検査院による欠陥の指摘を簡単に無視することを妨げられるのである(注27)。このように,会計検査院による財政コントロールは,予算領域における政府と議会の多数派とのあまりに広範な協働(Zusammenspiel)を阻止し,権力均衡のコンロール効果を支援する機能を果たすことによって,法治国家的システムの本質的秩序要素へと形成されるのである(注28)。

 3 独立性

 (1) 総説

 法治国家における財政コントロールの重要な地位および機能は,その主たる担い手としての連邦会計検査院の,可能な限り広範な独立性を伴った組織的形成によって可能にされる。基本法114条2項は連邦会計検査院の構成員(Mitglieder)の裁判官的独立性についてのみ述べるけれども,この独立性は,連邦会計検査院の組織全体にまで拡大されなければならない(注29)。しかし,この独立性は,財政コントロールの法律への最終的な拘束を必要とする。1985年に大改正を受けた連邦会計検査院法も,その一条で,連邦会計検査院の地位について,法律にのみ服する連邦の最高官庁である旨規定している(注30)。それによって,検査機関としての実質的な客観性が獲得されるのである(注31)。

 このように,政府,議会,またはその他の機関の影響からも独立した,裁判所にも類似した地位が連邦会計検査院に与えられたことによって(注32),国家権力の抑制としての会計検査の機能の遂行が可能にされ,それによって,国民の利益の保持が実現される(注33)。このような法治国家的効果は,議会による財政コントロールには,あまり期待しえない。なぜなら,事物適合的コントロールを果たすには,議会はあまりに社会的利益衝突および日々の政治的議論に陥るからである(注34)。議会による財政コントロールのもつ法治国家的意義は,とりわけ,権力分立のシステムにおける作用の仕方に,そして,政治的観点に服する民主的コントロールの構成要素として現れる。それに対して,連邦会計検査院による会計検査は,政治的要素ではなく,もっぱら法律にのみ基づいて行われる点で特色をもつのである(注35)。

 (2) 現今的検査および助言的活動と独立性

 検査は,それが決算に基づいて行われる事後的コントロールであるならば,必然的に「現今性」を欠くきらいがある。そこで,コントロールの有効性を高めるために,検査時期を当該会計年度の終了時へ可能な限り近づける努力がなされるとともに,1969年の予算法改革で,連邦会計検査院に対して,決算とは関わりなく検査の時期を設定する権限が認められるに至った(注36)。しかし,他面でそれは,現今性を確保すると同時に,検査から監督的なコントロールの性質を取り去り,助言的な共同執行(Mitvollzug)に機能変遷させる危険をはらむものではないかという疑問が生じた(注37)。

 しかし,結論的には,そのような現今的検査は,連邦会計検査院の活動の独立性およびそれゆえ法治国家性の危胎化を,それ自体もたらさない(注38)。なぜなら,現今的検査も,完結した事項(abgeschlossene Vorgänge)に関連して初めて行える事後的なコントロールでなければならないとされるからである(注39)。それに対して,まだ完結していない事項は,検査には親しまず,ただ助言のみが可能である(注40)。ただし,この助言にも「検査の経験に基づいて」という留保が付されている(連邦予算法88条2項)。ところが,この留保が具体的に有効に機能するかどうかは疑わしい。なぜなら,あらゆる財政効果を有する事項が,何らかの形で,検査の経験に結び付き得るからである(注41)。それゆえここで再び,あらかじめ助言を与えた会計検査院が,後に,それに完全に拘束されずに検査することはできないのではないか,つまり,検査機関としての独立性が脅かされるのではないかという危惧が生じる(注42)。

 しかし,会計検査院は,鑑定的活動に際しても,ただ,予算運営上の問題解決に関連する客観的な助言のみが許されるのであって,およそ行政府との協働は,基本法が意図するコントロール機関としての会計検査院の性格には異質なものである(注43)。また,助言といえども,無条件に「事前的」または「随伴的」会計検査になることまで許されているわけではない(注44)。なるほど現代においては,専門的助言と政治的決定とは,互いに密接に関連し,明確に区別することは困難である(注45)。しかし,それだけに,助言機能および検査機能が併せて会計検査院に賦与されたとしても,決して一般的な評価および嚮導の手段にまで至ることなのないよう,会計検査院に対して強く「自制」が求められねばならない(注46)。それゆえ,連邦会計検査院の検査および助言機能は,あくまで客観性の保持を強制されなければならず,その客観性が確保されるならば,助言機能と検査機能の結合も,もはや会計検査院の独立性を危うくするものとはいえず,むしろ,その強化を意味するといえよう(注47)。

注
注
注

 第3章 財政コントロールと権利保護

 1 財政コントロールに対する権利保護

 基本法の法治国家原則の構成要素の一つに,公権力による個人の権利の侵害に対する司法形態的な権利保護がある(注1)。従って,どのような法治国家も,その本質的基準として,包括的な権利保護を必要とする。この必要性は,法治国家性のもつ,権力抑制的な,また,個人の自由領域の保護に資するような効果から生じる(注2)。それゆえ,権利保護の必要性の本質的前提として,権利保護が認められるべき者の関連性(Betroffenheit)が問題となる(注3)。ここで考えられるのは,検査の直接の対象でなくとも検査の完全な把握および叙述を可能にするために検査に組み入れられる個人(第三者)である(注4)。しかし,このような個人への直接的関連性は,連邦会計検査院の検査確定,および,その議会での取り扱いによっては生じない(注5)。なぜなら,そこにおいては,何ら個人の権利領域に関わるような,また直接の法効果が根拠づけられるような,法拘束的な確定が行われているわけではないからである(注6)。

 このような理由から長らく法治国家の継子(Stiefkind)であるとされてきた公的財政コントロールの領域においても(注7),西ドイツでは,会計検査院の検査報告により個人の実体的権利が侵害されたとして,あるいは検査報告の公表によって営業上の利益を侵されたとして,裁判所に救済を求める例が(注8),また,それを支持する学説が(注9),最近かなり見受けられる。このようなことは,我が国では,これまでのところ,ほとんど見受けられないことがらであろう。

 ただ,その際の訴訟手段については,西ドイツの学説・判例において,必ずしも一致している状況にあるわけではない。もっとも財政コントロールをめぐる争いは行政裁判所法40条1項にいう公法上の争いであるということについて異論はないが,判例や学説において争われているのは,非憲法上の争いが問題かどうかである(注10)。しかし,非憲法上の争いを肯定し,行政訴訟を許容する説がある。それによれば,まず,取消訴訟や義務づけ訴訟は,検査報告自体が非権力的なものとされるであろうから,困難と考えられるであろうが,一般的給付訴訟(Leistungsklage)でもって争えないかどうかについては検討の余地があるとされるのである。事実,西ドイツでは,行政裁判所で会計検査院の行った検査報告の撤回を求めて争われた事件がある(注11)。また,国を相手取り,会計検査院の検査報告が違法に成立したことの確認を求める訴訟の可能性も検討される(注12)。他方,間違った内容により,あるいは聴聞(rechtliches Gehör)を受けることなく検査報告されたために損害を被ったような場合,損害賠償で争う道も残されているであろう。ただし,この場合,会計検査の性質・機能からして,あらかじめの聴聞を受ける手続上の権利は保障されなくてもやむをえない面があろうから,聴聞を欠くという理由では,違法確認または損害賠償の請求権を根拠づけることは困難であろう(注13)。

 2 会計検査院の検査権限貫徹のための法的保護

 (1) 検査権限貫徹の欠缺

 連邦会計検査院の検査権限は,たとえば連邦予算法95条による受検機関の情報提供義務に見られるように,単なる検査の受忍義務以上に,コントロールされる機関の積極的な支援義務(Unterstutzüngspflicht)によって形成されている(注14)。しかし,その受忍および支援義務を法的に貫徹するための有効な手段は,法律上,連邦会計検査院には与えられていない(注15)。

 連邦会計検査院とその検査に服する国家機関との権限をめぐる争いが生じた場合,仮に検査の受忍義務が憲法上の最高機関の権限および義務に関わると見なされるならば,基本法93条1項1号による憲法上の機関争訟手続が考えられる。しかし,連邦会計検査院が憲法機関かどうかという問題に加えて,通常の場合,受検機関は憲法機関ではないため,そうした機関争訟により会計検査院の権限を貫徹することは困難であろう。しかも,官庁の協力を欠く場合には,連邦会計検査院のコントロール活動は,事実上かなりの妨げを受けるにもかかわらず(注16),個々の行政機関に対する訴訟手段は,法律上,規定されていない。たしかに,可能性としては,それぞれの責任ある連邦大臣を,憲法上の機関争訟手続において,彼の従属官庁に会計検査に協力するよう指示することを義務づけるという方法も否定できないかもしれない(注17)。また,相手側から提起された行政訴訟における反訴によって自己の要求を実現できる可能性も考えられる(注18)。しかし,そうだとしても,憲法政策的には,公的財政運営の領域で高度の法治国家的意義をもつ任務を遂行する会計検査院に,憲法機関に対してのみ向けられた機関争訟以外に,検査客体に対する法的な貫徹可能性が全く与えられていないというのは,驚くべきことだとされる(注19)。

 (2) 公開制による欠缺の充填

 しかし,このような欠缺も,近時,検査確定および鑑定の増大する公開制(Publizität)によって,かなりの部分,補われているという(注20)。前述のように,連邦会計検査院の検査権が,たとえ直接には,連邦大臣に従属する官庁に対して貫徹可能ではないにせよ,公開性は,官庁に予算執行の公的批判を避けようと強く努力させ,随伴する自己コントロールの形式における官庁の協力を引き起こすのである(注21)。さらには,官庁の長,並びに,政府および議会に対しても間接的な圧力を行使するなど,とりわけマスメディア,なかでもプレスにおける財政コントロールの公開性の意義の増大は,民主的社会秩序における公行政に対する連邦会計検査院の透明化機能を加速するものである(注22)。国民におけるこのような財政コントロールへの注目は,なるほど,会計検査院の権限保護の保障に対する十分な補填ではないかもしれないが,場合によっては,個々の事例に関連した裁判上の貫徹よりも,検査の有効性を,より持続的に促進することにもなると考えられるであろう(注23)。

ただし,財政コントロールは,その公開の効果を検査客体との関係において有用なものにするためには,自らの側で,法および法律と一致していなければならない(注24)。つまり,財政コントロールの活動も,民主的法治国家においては,憲法適合的に成立した法律において具体化された国民の諸利益に適うものでなければならず(注25),それゆえ,諸法律を会計検査院が遵守することが,財政コントロールの効果的な作用のための公開にとって,重要な前提として必要とされるのである(注26)。このように,財政コントロールの中には,民主的な意思形成プロセスと,法治国家的要素との協力関係が絶えず認められるのである。

注
注

 おわりに

 以上のように,西ドイツにおける連邦会計検査院と法治国家原則との関係について論じてみた。ところで,西ドイツの公法学の特色の一つは,かたよらないで非常にバランスよく諸利益を考量しているということである。会計検査院と法治国家の問題についてもそのことはそのまま妥当するように思われる。

 たとえば,単に会計検査院の財政コントロール活動を法的に拘束しようとするばかりでなく,会計検査院に対してその権限の貫徹のための法的手段についても考察するのである。また,会計検査の意義を強調するあまり,検査を受ける側の権利利益を侵すこともありうるであろうが,その法的保護についても,法治国家論で徹底的に議論しているのである。

 また,バランス論は,財政コントロール機関としての議会と会計検査院との間にも,協力ないし協働関係が保たれるように配慮していることが注目に値する。すなわち,議会も財政コントロール機関として,しかし会計検査院とは異なり,たとえば質疑,決議などの政治的手段を意のままに行使しながら財政コントロール機能を果たす。この直接的,政治的貫徹可能性こそが,まさに議会という憲法機関に本質固有な民主的積極的プロセスに基づくことを表すのである(注1)。この,一方での民主的代表機関としての議会と,他方での法治国家的性格を伴った連邦会計検査院との間で,民主的法治国家を現実化する「協働」が確認されるのである(注2)。そして性格の異なる両者が,しかし相互に補完しあってこそ,民主法治国家における財政コントロールの機能がよりよく実現されるのである(注3)。しかも基本法114条は,連邦会計検査院による議会への直接の報告義務を制度化することによって,連邦会計検査院を連邦議会および連邦参議院へよりいっそう近づけ,これらの財政コントロール主体を密接な協力関係のなかに置こうとしている(注4)。

 以上のように,西ドイツは,車でたとえると,アクセルとブレーキを正しく使いながら,安全運転を行う国といってよいのではなかろうか。安全運転の仕方は,なによりも参考にすべきであろうが,西ドイツの会計検査院と法治国家の問題についても,上記の意味において,我が国も大いに参考にできるように思われる。

注
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