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第10号

研究の評価と情報ハイウエイ
田村浩一郎

田村浩一郎
(電子技術総合研究所次長)

 1940年生まれ。東京大学工学部応用物理学科卒業。63年電気試験所(現・電子技術総合研究所)へ,カリフォルニア大学バークレー校客員研究員,電子計算機部バイオニクス研究室主任研究官,制御部論理システム研究室長,ソフトウェア部数理基礎研究室長,企画室長,電子計算機部長(組織再編により情報科学部長)を経て,93年より現職。工学博士。この間,パターン認識,CAI,TSS,グラフアルゴリズム,理論プログラミング,分散並列処理アーキテクチャ,柔らかな理論,ヒューマンインタフェース,情報処理パラダイムなどの研究に従事。

はじめに

 米国のゴア副大統領による情報スーパーハイウエイ構想はこれからのマルチメディア時代を切り開くものとしてすっかり有名になった。全米を覆う超高速の情報ネットワークを構築しようと言うものである。わが国も米国に大分遅れていた情報ネットワークへの対処が急速に始められ,情報ハイウエイはこれからの社会インフラ構造としてきわめて重要な意味を持つものとなってきた。

 研究及び研究の評価もこのようなコンピュータネットワーク時代に大きく影響され,変容しようとしている。この問題についての先人の論考例を寡聞にして知らない。そこで以下に卑見を述べる。

情報ハイウエイ

 副大統領の父親のゴア上院議員が1950年代に全国の高速道路網を整備する法律を提案したのは,郵便配達を高速化するためであったと言われる。情報流通の高速化のために物流の高速化を図ったのである。副大統領は,情報流通と物流とを切り分け,現代ハイテク技術の投入によって,両者の効率化をはかる構想を提案した。こうして,情報スーパーハイウエイと交通システムは,いつも対になって語られる。後者の交通システムでは,ハイウエイでの自動運転や自動車と鉄道との相互乗り入れなどを目指す開発プロジェクトが進められている。情報流と物流の高効率化こそ社会活動全体を効率化するものであり,同時に人々に自己開放感を与えるもとになる。「だれもが好きなときに好きなところから情報を得,好きなところに情報を送ることが出来る」,そして,「だれもが好きなときに好きなところに出かけられる」チャンスを豊かにしてくれるからである。

 情報スーパーハイウエイ構想には下敷きがある。インターネット(Internet)である。インターネットとは,コンピュータネットワーク(多くは構内情報通信網)をつなぐネットワーク,すなわち,インターネットワークの一種であり,米国政府により研究用に整備されてきた。すでに全世界のネットワークをつなぐものとなり,ユーザー数は年々倍増し,現在では1500万人とも2000万人とも言われる。このインターネットに接続すれば世界の大半の国と電子メールでの交信が可能となり,また,それに接続され,公開されているデータベースを使用できる。たとえば,パソコンからネットワークを介して,米国の書籍販売会社のデータベースにアクセスし,希望の書籍を検索し,購入を申し込むことが簡単に出来る。また,発展途上国の中には電話網が未整備なために,ファックスよりもインターネットの電子メールの方が確実に届くとさえ言われている。

 このインターネットにマルチメディア情報が載る。マルチメディア情報とは,文字のみならず,音声,画像,動画などが一括してデジタル情報として表現されるものである。

 1980年前後に,わが国でもニューメディアとかマルチメディアとかが新しいビジネスチャンスを与えるものとして大いに期待されたことがある。ニューメディアの「メディア」はマルチメディアのメディアと異なり,放送や通信,ネットワークなど情報を運ぶ(表現形式ではなく)システムを言う。このころ,もっとも期待されたのがINSであり,キャプテンであった。INSは「いったい,なにを,するのだろう」の略ではないかなどと揶揄されたが,現在ではISDN通信網がその実現の一形態になっている。キャプテンはビデオテックスと呼ばれる伝送方式を使用するシステムであるが,通信速度や端末機の性能が貧弱なため,世界的にみても広く普及することのないものになっている。唯一の例外がフランスのミニテルであるが,これもコンピュータネットワークの中に取り入れられようとしている。

 このようなニューメディア開発競争のなかで生き残り,もっとも発展を遂げたのがコンピュータネットワークであり,その典型がインターネットである。パソコン通信もコンピュータネットワークの一種であるが,中央集中型形態をとるのがインターネットと根本的に異なる点である。この方式をとる限り,世界中のすべてを統括するパソコン通信などは考えにくい。インターネットは,ネットワークのネットワークであるから,分散形態をとり,いくらでも拡張できる可能性を持つ。今年あたりから,米国,そしてわが国の巨大パソコン通信もまたネットワークの一つとしてインターネットに組み込まれるようになった。

 さて,世界中には大小さまざまなデータベースが存在する。これらの多くがインターネットに接続されている。そして,それらの中にはマルチメディア情報を含むものがある。たとえば,ある美術館の収納絵画が載っている。あるいは,物理現象を示すビデオ画像が載っている。これらがインターネットに一定の形式で接続されていれば,インターネットに接続されたパソコンのユーザはこれらの情報に非常に容易にアクセスできる。その形式の一つで現在急速に広まりつつあるものがWWW(World Wide Web)と呼ばれるものである。Mosaicという米国イリノイ大学で開発された無料のパソコンソフトを使用するとWWWが利用できる。その操作はマニュアルを全く必要としないほど容易である。自分の机の上のパソコンから,それこそ指先だけで世界中のデータベースを見て回ることが出来る。そして,気に入ればたとえそれがビデオであろうとそのデータを気軽に取り寄せられる。その場合,当然膨大な情報がインターネットを流れる。インターネットでは仲介する機械(コンピュータ)がバケツリレーのようにして順に情報を送っていく。マルチメディア情報のような膨大な情報が流されると,当然,仲介する機械や機械を結ぶ回線がふさがれ,情報流の渋滞が起こる。現に,しばしばそのような状態を引き起こしはじめている。わが国の高速道路と似た状況なのである。それにどう対処するかという切実なニーズから生まれたのが情報スーパーハイウエイ構想であり,その構築を支援するNII(National Information Inflastructure)政策である。わが国にこの政策が伝えられたとき,その反応はひどいものであった。なぜそれほど高速のネットワークが必要なのか,全然理解されなかったのである。しかし,じっさいにWWWを使ってみれば,実感としてその必要性はよくわかる。もちろん,世界中の先進的研究所はこの事態を早くから認識し,そこにターゲットを合わせた研究が数多く行われてきた。その成果がこれから一斉に開花しようとしている。ところで,NIIは実はGII(Global Information Inflastructure)でもある。そして,膨大な産業需要を引き起こすものと期待されている。

 このような全世界的な情報ネットワークの整備は,研究のあり方,研究成果の提示のあり方,そして,その評価のあり方に甚大な影響を与えつつある。

研究と研究の評価

 研究とはどのような営みだろうか。

 米国の詩人Piet Heinに次の短詩がある。

The road to wisdom?

Well,it is plain

and simple to express:

Err

and err

and err again,

but less

and less

and less.

 研究とはまさにこのようなものであると私は思う。失敗を恐れず,失敗を認識し,そこから多くを学ぶ活動である。とくに,わが国で弱いとされている基礎研究にこそこの心意気が必要であろう。ここで言う基礎研究とは,既成の学問,技術領域の基礎を研究することであるが,これは同時に新分野を切り開く力を秘めており,むしろこの側面が強いものをそう呼びたい。

 さて,ではこの種の活動を評価するにはどうすればいいのか。基礎研究が重要であるという議論に必然的に伴う疑問である。失敗をも,あるいは場合によっては失敗をこそ評価されるようなものでなければならないであろう。

 研究成果の評価は,成果とされる発信された情報の価値をはかるものである。企業の研究ならば企業目的への貢献度,学会にあれば,学問への貢献度がその価値であろう。いずれも,失敗もまたそれがのちの人に役立つという意味で価値あるものとした上である。しかし,その価値判断が難しい。そこで,しばしば安易な方法が採られる。そのような,いわば,評価のための評価は無意味であるどころか,ときに害があり,歪みさえ残しかねない。その種の評価に発表論文の点数づけがある。どの学会誌の論文は何点と定められていて,総得点を計算する。ばからしいように思われるかもしれないが,日本の多くの大学でまじめに行われている。最近では,より科学的であると称して,被引用頻度,いわゆるインパクトファクターを用いる方法もある。たしかに客観的な評価である。しかし,「客観的」=「合理的」ではない。このような「評価規則」が被評価者と評価者を縛る。つまり,規則が人間を支配するのである。そのあげく,計算式を満たすことが人々の目標になり,本来の価値判断はどこかに消えてしまう。企業の研究所ならば,その企業の売り上げに貢献することなく,大学などの基礎研究においては,点のとりやすい,したがって無価値であるが故に競争のあまりない領域に逃げ込む人を作り出しかねない。一度このような体質ができあがると,元に戻すには相当の年月とエネルギーを必要とする。

 すべてではないにしても,いくつかの伝統的学会誌はさらに根深い問題を抱えている。査読者の査読を通過した投稿論文だけが掲載される。しかし,査読の時間が往々にして大変長い。また,査読者は神ではないから,必ずしも公平ではないし,すべてを知っている力量があるわけでもない。そして,それらの学会が対象とする既成領域外のものは除外される。従って,新分野の開拓を目指すような研究は受け入れられにくい。たとえば,約30年前にはコンピュータプログラムについての論文を受ける学会はわが国には見あたらなかった。プログラムに関する活動は研究とは見なされなかったのである。運良く査読を通過しても,編集,印刷発行までに時間がかかる。投稿から掲載まで1年ないし2年かかることを覚悟する必要のある学会誌は多い。当然,掲載時には情報は陳腐化する。そのような学会誌は,学位審査とか昇格審査に備える点数稼ぎの場と化しており,そこから最新情報を得ようと考える読者は少ない。ある世界的に著名なコンピュータ関係の学会誌に,「この論文は,査読の遅延により掲載が遅れたため,既に同じ内容のだれそれの論文が別誌で発表されている。しかし,著者の要望により掲載するものである」というコメント付の論文が載ったことさえある。このような学会誌は,肝心の情報の鮮度を失っており,産業界はもちろん,学会への影響力さえ薄まっている。すなわち,本来の役割を失いつつあるのである。

査読は必要か

 そもそもなぜ査読が必要なのか。第一に学会誌の水準を高く保つためであるといわれる。しかし,論文の質を評価するのは本来は読者である。査読者は読者の手間を省くために論文を選定すると称する。たしかにその一面はあるが,読者側から考えてみると,余計なお世話であるとも言える。第二に,ページ数をむやみに増やすことが出来ないと言う資源の制約から,論文を選定する必要があると言われる。では,もしこの制約がなければどうだろうか。ここで情報ハイウエイとの関わりが出てくる。

 研究とは価値ある情報の創生である。研究開発によって仮に新物質や新機械が開発されたにしても,それら自体はコピーされ,普及されてはじめて意味を持つから,それらの成果のエッセンスはそれらについての情報である。これを研究者は作り出す。研究成果(のエッセンス)は情報である。論文はその情報を言語で記述したものである。しかし,言語で記述されなければならないと言うことはない。画像や動画の方が意味があるケースも多々ある。さらには,コンピュータプログラムそのものの方がよりふさわしい場合さえある。たとえば,現代の優れたCADを使うプログラムはそれによって作られる機械,あるいは物質について論文以上に有用な情報である。

 研究成果の普及はこのように広い意味での情報として提示され,流通されるべきでものである。それには情報ハイウエイによるのが最適であろう。現実に,先に述べたWWWなどではそこで公開される論文や画像が急激に増加している。そこでは,学会誌などのような狭い資源的制約がない。したがって査読者も原則としていない。研究成果の善し悪しはあくまで読者,すなわちネットワークを見て回る人々の判断にゆだねられる。 

 研究者側は,研究成果が出たと考えると,それを論文やプログラムとしてネットワークに載せる。自分の近くにあるデータベースに含ませるだけである。すると,世界中の誰かが,もし関心があればそれを見に来て,情報を取り出す。もちろん,アクセスを制限することは簡単であるが,逆に公開も容易である。ネットワークに載せることこそ,もっとも速く,もっとも正確に,もっとも広く公開できる方法である。そして,査読者のような発信を制限する者がいない。また,発信した結果を誰がいつ取り出したか,その履歴は正確にコンピュータに残る。このような研究成果の発表(発信)方法が現在,急速に普及しだしたのである。

新時代の研究評価と研究方法

 しかし,以上のような状況にまかせて放置するには多くの問題がある。たとえば,誰かが誰かのアイデアを盗んだとしたとき,読者(ネットワークユーザ)はどのようにしてそれを判断できるだろうか。

 そこで,次のような方策が考えられる。まず,研究者は研究に一区切りついたとき,その成果情報をネットワークに載せる。もしその成果とされるものがすでに誰かの成果と同じものとみなされるときには,それに気付いた読者がその旨のクレームを送り,成果情報に連結した形でデータベースに載せる。誤りを発見した場合も同様である。このようなクレームが正しいかどうか,それについての議論もまた当然あり得るので,そのような意見があれば,そのクレームに連結される形で同じデータベースに載せる。クレームだけでなく,賛辞を送る読者もあるだろう。これら,すなわち研究成果情報をめぐる議論のいっさいをその成果に連結させて載せるのである。いわば,潜在的に世界中の人たちを評価者とするようなものである。

 研究評価者は,成果情報へのアクセス回数や全世界(あるいは閉じた組織体内)から集まるコメントを総合して成果を判断する。もちろん評価者自身の評価をもって総合することは言うまでもない。

 しかし,以上の方式に対して,次の疑問が生じる。世界中の無数のデータベースに発表される論文を研究者はどのように調べることが出来るのだろうか。読者側に圧倒的な量の情報が与えられることになる。現在でも既にこの問題はある。世界中に無数の学会誌が発行されているし,これらに発表される論文数はうなぎ登りである。しかし,ネットワークでの発表はこれをはるかに上回るに違いない。

 この問題に対する技術的対策は,いわゆるネットワーク探索エージェントを使用することである。このエージェントは一種のプログラムであるが,ユーザの指示に基づいた検索を世界中のネットワークを渡り歩いて実行し,関係するものが発見されるとそのユーザに持ち帰る。実際にこの技術は実用化しつつある。

 さらに,ネットワーク上の読者の考え方を予想すると,同僚などの評判から判断して,特定のサイト(研究所),特定の著者に注目するようになるだろう。すなわち,いちいち世界中のものを見て回ることなく,特定のサイトが集中的にアクセスされるようになるだろう。現在でも,特定の大学の特定の学科が発行する研究速報の読者数がきわめて多い。このように注目されサイトこそ,COE(Center of Excellence)の名に値しよう。ネットワーク上のデータベースへのアクセスを見ることによって,この評判を容易に判断できよう。いくら,発信情報量が多くとも,人に受信されなければ情報の価値はないから,アクセスされる頻度は重要な指標になるだろう。

 また,研究成果発表までの途上における研究活動もネットワークの充実によって大きな影響を受けつつある。他人の成果の最新情報を手に入れることが出来るのみならず,ネットワーク上で共同研究をするとか,あるいは不特定の人々と議論を交わすことが容易に出来るからである。これらは現実にはじめられていることであり,今後,どのように発展していくか,注目に値する現象である。

最後に

 情報ネットワークは今後の社会活動に圧倒的な影響を与え,大きく変化させるに違いない。本稿は,研究活動とその評価に対する影響について論じたものである。しかし,技術と人間活動との歯車のかみ合いがどの方向にどこまで回転していくのか,その予言は一般には非常に困難である。

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